吉田藩の武家屋敷

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 武士はみな主君の城下に集められ、城の外郭に形成された武家地の中に家屋敷を与えられた。武家屋敷はいわば主君からあてがわれた官舎であった。吉田藩では三の丸の外側にある土塁と堀とで隔てられた東・西・南の三方から城を取り囲むように武家屋敷が位置していた。武家屋敷のさらに外側は土塁と外堀によって取り囲まれ、町人の町と区別されていた。
 吉田藩の武家屋敷は、十五万二千石の池田輝政の家臣団の人数にあわせて設計された。しかし、輝政以後の藩主は三万石から八万石の規模であったため、その面積は必要以上に広くなる結果となった。
 元禄(げんろく)十年(一六九七)の記録によると、禄高(ろくだか)七百石の家老は、実に三〇九五坪(一万二一四平方メートル)の屋敷地を持っており、禄高百石の目付(めつけ)でさえ八〇七坪(二六六三平方メートル)の屋敷地であった。武家屋敷として必要以上に広く、池田輝政時代の屋敷割の影響があることがわかる。また、所有する屋敷の数では、寛永(かんえい)九年(一六三二)の記録によると禄高一千石余の家老は二七戸を持っていた。これをはじめ、禄高三百石の家老でも一三戸を持っていたし、藩士一四三人をみても、そのうち実に一一〇人が二戸以上の家を持っていた。
 当時、武家屋敷を形成していた町は、「小路(こうじ)」と呼ばれ、天王小路・広小路・神明小路・神明小路横町の四つに分けられていた。その後、広小路は八丁小路と改められ、神明小路横町は袋小路・八幡小路・川毛小路・土手之町の四つに細分された。武家屋敷のほかに足軽屋敷があったが、武家屋敷とは厳しく区別され、城外の東西二か所(現松葉町と旭町)に置かれた。
 外堀に接して、武家屋敷地から町地への出入り口がいくつかあり、門と番所が設けられて通行人の監視にあたった。南に城の正門にあたる大手門があり、札木町と呉服町に続いた。その他に外天王口門・本町口門・曲尺手口門・新町口門・外飽海(あくみ)口門があった。

明治初年の大手門 深井政秀氏提供

 吉田城を取り囲んで配置された武家屋敷は、いうなれば常備軍団の兵営でもあった。大手門などの六か所の門は門番によって常時警固されており、町人はもちろん、藩士とその家族・奉公人でさえ自由に往来することはできなかった。
 武士の通行は明六ツ(日の出)から夜五ツ時(午後八時ごろ)までに限られていた。また、夕七ツ時(午後四時ごろ)以降の外出には、門限までの時間に帰ることを確約したうえで自分の名札を提出しなければならなかった。もし、門限に遅れると名札は目付に回されてしまう。また、遠出や外泊についても厳重に規制され、公務以外の目的で領外へ出ることは、日帰りの場合を除き原則として藩主の許可を必要とした。旅については、かえって庶民の方が自由であったともいえる。このように武士は不測の事態に備えてただちに対応するため、非常呼集の太鼓の音が届く範囲に足どめされ、外出なども規制されたのである。