藩士はごく少数の者を除いて、すべて何らかの勤務に服していた。大河内松平時代の吉田藩では、おおむね家禄百石以上の藩士が役人になっていた。役人は藩の要職者である。役人は、政務を担当する「表方(おもてがた)」と、藩主の側近に仕える「側勤(そばづとめ)」とに分類される。側勤の筆頭は小姓頭(こしょうがしら)で、用人・用役などがこれに次ぐ。幕府の側用人に相当するものである。
政務を担当する表方は、家老とこれを補佐する中老の下で「番方」と「役方」に分かれる。家老は幕府の老中に、中老は若年寄に相当する。吉田藩では家老・中老・小姓頭・用人の四職を「御席」と称して最高首脳部を構成していた。
番方とは軍事的性質の勤務をいう。番方には、城代・城番頭・番頭・籏(はた)奉行・鑓(やり)奉行・者頭(ものがしら)・城番者頭などが属した。番方は平時においてはおおむね閑職であり、任務は、城郭や内外郭の門、要所要所の警備が中心になった。付属の同心(足軽・中間(ちゅうげん))はほとんど別の勤務に回された。しかし、武士はもともと軍事集団であるとともに、幕府からも、寛永十年(一六三三)の軍役令で戦時における従軍義務が課されており、勝手に削減することは許されなかった。吉田七万石の軍役規定は、足軽・中間(ちゅうげん)も含めて一四六三人であった。
また、本来は番方系の職でありながら、やや特殊な性格を帯びたのが奏者番(そうじゃばん)・普請(ふしん)奉行・使番・目付(めつけ)などである。目付はいわゆる監察官である。
これに対し、非軍事的性質の勤務(領内の行政・司法・財務など)を一括して役方と呼んだ。
役方には、町奉行・郡(こおり)奉行・郡代など町人や百姓を支配する民政関係の役人と、勝手掛・勘定奉行など財務を担当する役人が属する。町奉行は吉田と新居の町を、郡奉行・郡代は領内の村々を取り締まった。この時代、武士は領内の百姓から取り立てる年貢に依存していたため、民政や財務の役人の重要性が高まったことは当然であろう。
町方の支配は、町奉行とその配下の組町同心が担当していた。町奉行の定員は、古くは二人であるが五人いたこともある。配下の同心は一一人ずつ二組に分かれていたらしい。彼らの主な仕事は惣門の門番や町廻り、火の用心・消防である。東と西の惣門は、二人ずつの門番によって吉田の町の出入り口を固めていた。また、町廻りは市中の犯罪の取り締まり役である。
郡方(こおりがた)は地方(じかた)と山方に分かれ、郡奉行とその配下が担当していた。村の支配は地方役所が担当した。地方役所の内部は、渥美・宝飯・八名の三組に分かれ、組ごとに一人の札元・二人の代官・五、六人の郷同心が配属されていた。
安政(あんせい)五年(一八五八)の「村々家数并人別改」によると、吉田領内の村の総戸数は一万三一五四戸、人口五万八一七九人である。管轄地の広さや人口に比べて地方役所の機構が貧弱であったことがわかる。
これらの役人は、それぞれの必要性に応じて吉田と江戸表に配属された。家臣はその主君にとって「戦時には盾、平時には飾り」であった。大多数の武士は、戦乱が絶え天下泰平の世が続くにつれて緊張がゆるんだ。しかも、貨幣経済の発達とともに城下の町人との接触が増え、武士道を忘れる者も多かった。そこで、武士の気風の引き締めを常にはかる必要があり、武士道の遵守がとくに奨励された。