藩主が領内から収納した年貢米(蔵米(くらまい))を家臣に支給する俸禄制は、封建制本来の基本的な考え方が大きく変化したシステムである。藩主が家臣に土地(知行地(ちぎょうち))を与えるのと、それに相当する蔵米を俸禄として与えるのとでは、似ているようで本質的に異なる。なぜなら、前者の場合、家臣は土地と農民の支配権を持つのに対し、後者の場合、土地から切り離された家臣団は藩主から俸禄を受け取るだけとなり、現代のサラリーマンと何ら変わるところがなくなる。俸禄制により、藩内における藩主の直接支配権は格段に強化された。もっとも、農民にとっては知行主によって年貢率がまちまちになることを避けられ、負担の公平化がはかられるという利点もあった。
吉田藩では、江戸初期の深溝(ふこうず)松平時代には地方(じかた)知行がおこなわれ、藩領の半分ほどが知行地として家臣に与えられていた。しかし、小笠原時代には何石を与えるという石高(こくだか)知行に変わり、俸禄制に移行した。俸禄はすべて藩庫から支給される現物、または現金(銀)の給与に統一されていた。俸禄は知行・切米(きりまい)・扶持米(ふちまい)・給金(銀)の四つに大別され、このうち扶持米だけが日当計算で、他はすべて年俸である。
知行は、「高何百何十石」という形で与えられた。実際は、四つ物成(ものなり)といって一律に知行高の四割の蔵米を支給された。つまり、知行高百石ならば、俸禄は四十石になる。
切米は「何俵」という表現の俵切米(たわらきりまい)と「切米何石何斗」という表現の石切米(こくきりまい)があった。この場合、俵切米の一俵は三斗五升の計算であった。たとえば、俵切米五〇俵ならば、石高に換算すると十七石五斗になった。吉田藩では、知行取の藩士はおおむね四、五十石以上、俵切米取の者は三〇~五〇俵程度であった。
石切米は、それだけを単独で与えられることはほとんどなく、たとえば「何石何人扶持」というように扶持米と併せて与えられた。
扶持米は、一人扶持が一日当たり玄米五合の日割り計算で支給された。つまり、二日で米一升に当たり、一人扶持は年俸に換算すると、およそ一石八斗になった。扶持米は単独で与えられることもあるが、しばしば知行や俵切米に加えて支給され、石切米や給金(銀)には必ずといってよいほど扶持米がプラスされた。
給金は「金何両何分」、給銀は「銀何匁」という形で与えられた。銀六〇匁が一両である。
俸禄によって藩士の身分・格式がだいたい決まっていた。知行を与えられる者を知行取といい、天保(てんぽう)十一年(一八四〇)の記録によれば吉田藩では一二九人いた。知行取の身分はおおむね上士にあたる。すべて扶持米の者を扶持方取といい、八四人いて、扶持方取の一部は上士、大部分は中士である。俵切米を与えられる者を俵取といい、九四人いて、俵取は中士にあたる。石切米に扶持米をあわせて与えられる者を切米取といい、一八四人いて、切米取は下士にあたる。ここまでを合計すると藩士は四九一人ということになる。
吉田藩士役寄帳 和田元孝氏蔵
給金を与えられる者を金(銀)給取といい、七三七人いた。金(銀)給取は徒士(かち)の大部分と坊主・足軽・中間たちであった。彼らは、広い意味では家臣のうちであったが、御目見以下という主君に謁見できない身分である。いわば士と農の中間身分であり、足袋をはくことを禁止されるなど差別される場合が多かった。
上士階級に属する知行取は、徒士や足軽・中間など身分の低い者との結婚は許されなかった。当然、領内の百姓との結婚も許されなかった。一方、中間などの金給取は、町人や農民との結婚が許された。士農工商の身分制度を守ろうとする藩の方針がうかがえる。
江戸時代の貨幣と物価
江戸時代には、大判・小判などの金貨、丁銀・豆板銀などの銀貨、さらに寛永通宝・天保通宝などの銅貨(銭)が通用していた。
貨幣の交換比率は改鋳による金銀の含有量や貨幣流通量の変化によって一定しなかった。元禄期はとくに混乱したため、幕府は元禄十三年(一七〇〇)、改めて金一両につき銀六〇匁、銭四貫文(四千文)という交換比率を決めた。ちなみに一両は四分、一分は四朱で、一六朱で一両に相当した。
江戸時代の物価の基準は米価であるため、単純に現代の物価と比較することはできないが、文政六年(一八二三)の大坂の米相場は米一石が銀六〇匁内外である。この年の金、銀、銭の交換レートは、金一両で銀六五匁、銭六九〇〇文である。江戸時代を通じて、ほぼ金一両で米一石(一五〇キログラム)を買うことができた。
さて、現在と比較するために米一〇キログラムを四千円とする。米一石は、それを一五倍して六万円。一両がおよそ六万円となる。銭に換算すれば一文が約一〇円になる。「五石二人扶持」のような下級武士を例にすると、一人扶持当たり一日五合の米の支給で、合計すると米八石六升余りの年俸となる。これを換算すると五〇万円余りとなり、生活は決して楽ではなかった。
二川宿本陣資料館蔵