馬見塚村の庄屋のくらし

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 検地帳によると、農民たちの土地所有には大きな差がある。数町歩以上の大土地所有者もいれば、土地を持たない水呑百姓(みずのみびゃくしょう)もいた。宝永二年(一七〇五)の「馬見塚(まみづか)村宗門御改帳控」によると、馬見塚村は本百姓が二一戸、水呑百姓が四二戸という構成である。水呑百姓は、当然、検地帳にも記載されない。
 当時の農村の実態を具体的に知ることは難しい。そこで、馬見塚村の庄屋渡辺家を例に、庄屋の暮らしを通して当時の農村のようすをうかがってみる。すでに第三章で述べたように、永正二年(一五〇五)、牧野古白(こはく)が馬見塚に今橋城を築城の際、先住者であった渡辺家は住民をつれて豊川河口の島に移り、その地を改めて馬見塚と呼んで代々庄屋を務めた。
 渡辺家のような大土地所有者は自分の家族だけでは耕作できないため、代々仕える譜代下人(ふだいげにん)や下男下女などの使用人を含めた大家族経営を必要とする。事実、渡辺家は村内で最大の家族を持っていた。宝永二年の家族総数五九人のうち、渡辺家の親子弟妹は一一人である。残りの四八人は、女房・子供を持つ譜代下人が四一人、下男下女が七人で、非血縁の者を五〇人近く含む大家族であった。
 寛政二年(一七九〇)の段階で渡辺家の持高は、田七八石、畑七三石あわせて一五〇石余であり、面積にして十数町歩である。その中から六〇石ほどの年貢を支払い、三〇~四〇石の米を販売していたのであろう。渡辺家の使用人の数は、表のように時代とともに減少していくが、渡辺家では使用人を手放しながら、雇用労働で補っていたと思われる。このころ、金一両がおよそ七〇〇〇文、一日の給金は一二五文から一七五文ぐらいである。渡辺家では年間延べ五~六〇〇人を日雇いとして使用していたと想像される。
渡辺家 譜代下人と下男下女数
譜代下人下男下女合計
宝永2年(1705)41 748
寛延2年(1749)341448
宝暦9年(1759)291039
明和2年(1765)24 731
天明8年(1788)20 020
寛政4年(1792)13 013
「豊橋市史第二巻」より

 渡辺家で販売していた農作物は米が主であるが、その他にもわずかながら農作物を売っている。その品目は、みかん・竹の子・大豆・麦・胡麻(ごま)・藍(あい)・なす・うり・辛子・そばなどであった。さらに干鰯(ほしか)の販売がある。干鰯とは、干したいわしのことで肥料としてよく使われた。自家用に購入した余りを転売したものであろう。
 渡辺家の購入品目をみると、干鰯・農具や馬具・農作物の種・米穀類・魚・鳥・貝・調味料・衣料品・家具調度品などである。とくに、わらや縄・ぞうりといった日用品、山芋・さつま芋などの農産物、豆腐・油揚などの食品、たばこ・菓子・酒・飴などの嗜好品(しこうひん)などを購入していることが興味深い。
 渡辺家において、譜代下人や下男下女を使った封建的な大家族による経営から雇用労働による経営へ変化したこと、および、さまざまな商品を購入していることなどから、江戸時代中期には、農村への貨幣経済の浸透がかなり進んでいたことがわかる。
 一方、馬見塚村の農家の経営規模を見ると、時代とともに高一石に満たない貧農が増加していることが読み取れる。譜代下人の独立や分家による分割相続の結果と考えられるが、彼らは大地主の土地を小作したり、町に奉公に出たり、賃金労働をしたりなどして、生計を立てざるを得なかった。こうした零細農民が増加すること自体が農村の自給自足体制を崩し、貨幣経済の浸透を加速する原因ともなった。しかも、ぎりぎりの生活を余儀なくされる零細農民は、いったん天災などにあえば年貢も滞り、借金のかたにわずかな土地も手放すほかなかった。
馬見塚村農家の経営規模
享保5年
(1720)
元文5年
(1740)
天保12年
(1841)
1石未満3 8 31 
1~5石82264
5~10121118
10~20582
20~3011
30~401
80~901
100石以上11
「豊橋市史第二巻」より

 すでに、寛永(かんえい)二十年(一六四三)の田畑永代売買禁止令は、質入れなどによる実質的な売買によって実効力を失っていた。貨幣経済の進展とともに、資本を蓄積した商人や豪農たちは、貧農の農地を手中に収めて大土地所有者へと成長していった。こうした動きのなかで吉田藩に限らず諸藩の対応はほとんど後手にまわり、近世末期の農村を疲弊させていった。