農業技術の進歩

129 ~ 130 / 383ページ
 江戸時代前期は農業技術が著しく進歩し、また、全国各地で新田開発がおこなわれて農業生産が高まった時期である。いわば、農村における高度経済成長期であった。
 三河でも享保年間になると備中鍬(びっちゅうぐわ)が普及した。農作業はほとんど鍬によってなされた。近世ではこの地方の鍬は吉田鍛冶町で生産された。
 また、文久三年(一八六三)の記録によると、渥美郡では牛は飼っていなかったが、馬は一〇一頭飼われていたという。渥美郡の戸数四四七〇戸からみればとくに多いとはいえないが、馬耙(まぐわ)による代掻(しろか)きなどの畜力利用が進んでいたらしい。
 脱穀作業は中世以来扱箸(こばし)でおこなわれていたが、元禄・享保期から千歯扱(せんばこき)が普及した。また、籾摺(す)りには木の磨臼(すりうす)から土の唐臼(からうす)へ、選別には唐箕(とうみ)や千石簁(せんごくどおし)が用いられるようになった。農機具の改良・進歩による農作業の能率向上もこの時期の特色である。

千歯扱・備中鍬 「農具便利論」より

 肥料は、刈敷(かりしき)や藻草、人糞尿が広く用いられた。刈敷は山野の草木を採取し、田畑にそのまま踏みこむものであった。また、刈敷は馬などの飼料にもなったため入会(いりあい)争論の原因ともなった。近世中期以降になると魚肥などの購入肥料が使用されるようになった。この地方では、太平洋沿岸の村で干鰯の生産がおこなわれ近郊農村に販売されている。正徳(しょうとく)二年(一七一二)の手洗村差出帳には「田こやし干鰯一反につき三、四俵あて入れ申し候、小草大分入れ申し候」とあり、刈敷のほかに相当多量な干鰯が使用された。また、嘉永(かえい)三年(一八五〇)に鰯の購入をめぐり、牟呂村と前芝村の者が魚町の者に乱暴される事件が起こっているが、これも鰯を肥料として利用することがきっかけになっている。このような購入肥料の使用によって作付回数の増加や商品作物の栽培が可能になり、さらに採草地に恵まれない地域の開発も進んだ。
 一方、木綿など各種の商品作物の栽培が広まったことが特筆される。鈴木梁満(やなまろ)が文化二年に著した「農家日用集」によると穀物のほか、あぶら種・大豆・五月ささげ・胡麻・大角豆・ごぼう・大根・なすなどの耕作法をあげ、とくに木綿については詳しい栽培法を記している。
 水田稲作農業にとって水は不可欠のものである。東三河地方でも、用水や井堰(いぜき)、溜池の建設が盛んにおこなわれた。松原用水の前身となった草ケ部井堰は、この地方で最も大規模なものである。また、多数の溜池も造られた。承応(じょうおう)三年(一六五四)には向山池が造られ、吉田方の灌漑(かんがい)に利用したことは有名である。また、寛文(かんぶん)七年(一六六七)の平川新田の開発の際、その潅漑のために利兵衛池・水神池が造られた。