山田宗徧と茶道

133 ~ 134 / 383ページ
 茶道宗徧(そうへん)流の祖である山田宗徧は、利休流の庶民的な侘茶(わびちゃ)を吉田に広めた人である。文武両道に通ずることは武士のたしなみとされ、大名にとって芸能や学問など教養を高めることは重要であった。

山田宗徧画像

 宗徧は六歳の時、千利休・古田織部(おりべ)とともに三大茶人といわれた小堀遠州(こぼりえんしゅう)に師事し、一八歳で千利休の孫の千宗旦(せんのそうたん)に入門して利休正伝の茶儀を学んだ。吉田城主小笠原忠知は当代侘茶の第一人者であった千宗旦を招こうとしたが、宗旦は老齢を理由にこれを断り、代わりに愛弟子宗徧を小笠原家に推薦した。
 明暦(めいれき)元年(一六五五)、宗徧は吉田藩茶道方として三十石五人扶持を与えられ、忠知(ただとも)・長矩(ながのり)・長祐(ながすけ)・長重(ながしげ)の四代四三年間にわたって仕えた。元禄十年(一六九七)、小笠原長重が武蔵国岩槻(埼玉県)に転封(てんぽう)になったのを機に、宗徧は職を二世宗引に譲った。彼は江戸に移って本所二丁目に住み、利休正伝の侘茶をはじめ宗徧流または江戸千家の始祖となった。
 宗徧は利休流の茶書を出版した最初の人である。その生涯のうちに「茶道便蒙鈔(さどうべんもうしょう)」「茶道要録」「茶道具図絵」のいわゆる宗徧三部書を著作刊行した。うち、二つは吉田にいたころの著書である。
 宗徧は茶事に関する自作の道具も多く、宗徧作と銘打った茶杓(ちゃしゃく)・花入・茶碗などのすぐれた茶道具を残している。なかでも小笠原家の菩提寺である臨済寺所蔵の花入「黒塚」は有名である。また、多くの琵琶(びわ)の製作があり、雲谷町普門寺の「小々波(さざなみ)」などが現存する。ほかにも阿弥陀如来の木像が残されている。さらに、臨済寺と湊神明社には宗徧作の庭園がある。彼が好んで茶に用いたという吉田の三名水は花田町羽田八幡宮北の「栄川(えいせん)の井」、南松山町の柳生橋付近の「呉竹(くれたけ)の井」、花園町豊橋別院境内にあった「御坊(ごぼう)の井」であったが現在ではいずれもなくなっている。

宗徧作花入「黒塚」 臨済寺蔵

 宗徧などの文化人が吉田に来たことをきっかけにして茶の湯が広まり、武士階級や僧侶・神官が地域文化の担い手になっていった。そして、この時代以降、商人や富農などを中心に庶民にもさまざまな文化が広がっていった。その基盤には城下町吉田の経済的な発展がある。