藩校時習館の創設

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 江戸時代における教育は、武士は藩校で、庶民は寺子屋や私塾でおこなわれた。
 吉田藩でも、藩士の子弟の教育は藩校でおこなわれたが、女子は藩校に入ることは許されなかった。吉田藩校時習館は宝暦二年(一七五二)藩主松平信復(のぶなお)によって設立された。三河では最も早く、尾張を含めても尾張藩校明倫堂に次いで二番めであった。この時期は幕藩体制の動揺がはっきり表れてきたころであり、藩校の設立はそれを教育の面から支えようとしたものである。
 時習館の位置は吉田城内、現在の市公会堂のあるあたりで、敷地一四〇〇坪(四六二〇平方メートル)、建坪九三坪(三〇七平方メートル)であった。校名の「時習」は、論語の一節、「子曰わく、学びて時に之を習う、また説(よろこ)ばしからずや」に由来する。

時習館の扁額 愛知県立時習館高等学校蔵


時習館本館間取図 「豊橋藩皇学開校次第」より

 時習館の創設は三浦竹渓(ちくけい)を中心におこなわれたと想像される。彼は荻生徂徠(おぎゅうそらい)の高弟として知られた儒学者で、藩主信祝(のぶとき)に仕え、信復(のぶなお)の教育係を勤めた。時習館創立時には信復三四歳、竹渓六四歳であった。開校後はすべてを門人飯野柏山(いいのはくざん)にまかせ、飯野柏山が初代教授となった。
 江戸時代には儒学の一派である朱子学が幕府の官学とされた。朱子学の普及と同じころ、陽明学、古文辞学、折衷(せっちゅう)学、考証学など種々の学派がおこった。寛政二年(一七九〇)、松平定信は寛政異学の禁により朱子学を官学としたが、文化八年(一八一一)、吉田藩主松平信明(のぶあきら)はあえて朱子学ではなく考証学派の大田錦城(きんじょう)を吉田に招いた。錦城の吉田における生活は信明没後のわずか一年たらずであったが、この間、時習館の学風に大きな影響を与え、それまでの古文辞(こぶんじ)学派が後退し考証学的学風が藩内に広まった。古文辞学とは、宋・明の儒学や伊藤仁斎(じんさい)の古学に反対して荻生徂徠が唱えた学問であり、また、考証学とは広く古書に証拠を求め、独断を避けて経書を説明する学問である。
 中山美石(うまし)は、国学の面では本居大平の門下の逸材であったが、漢学の面では初め西岡天津(てんしん)、後に大田錦城に学んで考証学を習得していた。美石は文化十四年(一八一七)に時習館の考証学の教授として抜擢されて以後社会教育にも力を注ぎ「在中教諭」の制度を設けてこれを実施させた。これは時習館教授を領内に派遣して講義をおこなわせ、領民を訓育するものであった。
 時習館での教育の基本は文武両道を教えることであった。学問については儒学などの漢学を中心とし、論語などをただ声をあげて正しく読む「素読」、二人以上で読書しその意味を研究しあう「会読」、書物の意味を解釈する「講釈」の三科があった。
 武芸の種目は、弓術・鎗術・剣術・馬術・居合・柔術・砲術の七科に軍学・躾(しつけ)方の二科を加えた九科で、躾方とは小笠原流の礼法のことであった。なお、時習館の科目に算術が加わったのは、万延(まんえん)元年(一八六〇)以降であり、算術を軽視する武士の考え方がうかがえる。
 
藩校時習館での学習の規則
 藩校に入学するのは八歳が普通であった。休みは、毎月一日、一五日、二八日の三回だけであった。入学してすぐに課せられるのは素読(そどく)で、時習館規条にも、「幼輩の者は、まず館中にて素読専らに致し、意味は成長にしたがい(中略)自然にあい分かり申す者に候」とある。規則の一部を紹介する。
一 毎朝六ツ半(午前七時)までに来ること、到着順に名札をかけ教官に一礼してから静かに読むこと
一 素読の本にかなで書き込みをしないこと
一 素読の回数は教官の許があるまで何回も読むこと
一 素読の本は、孝経(こうきょう)・論語・詩経・書経・礼記・易経(えききょう)・春秋(しゅんじゅう)を基本とする
一 館内で失礼なことがあれば係が注意する、口論や大声を出すなどしてはいけない
一 幼年の者は退屈したり怠けることが多い、師の恩を忘れあれこれ批判することを禁止する
  武士の子どもといっても、現代と同じく、いうことを聞かない子どももいたようである。