羽田野敬雄と三河の学問

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 国学は僧契沖(けいちゅう)に始まり、荷田春満(かだのあずままろ)賀茂真淵(かものまぶち)などを経て、本居宣長(もとおりのりなが)によって完成された。万葉集・古事記などの研究をもとに、日本の古典に学ぶことを通して民族精神を探ろうとする学問であった。このような考え方は、優れた過去をもつ日本は万国に優れているという認識にもつながり、尊王攘夷論など幕末の思想に大きな影響を与えた。
 吉田の国学は、魚町の安海熊野神社の神主鈴木梁満(やなまろ)に始まる。梁満は賀茂真淵の門下となり、続いて天明四年(一七八四)吉田で最初の本居門人となった。
 羽田野敬雄(はだのたかお)は、寛政(かんせい)十年(一七九八)、宝飯郡西方村(御津町)に生まれ、幼いころから学問に励んだという。後に羽田村の神主羽田野敬道の婿養子となった。文化二年(一八〇五)、本居宣長の養子大平(おおひら)が吉田に来て講義をおこなった時、中山美石が最初の門人となり、文政八年(一八二五)、二八歳の敬雄も本居大平の門人になった。

羽田野敬雄

 続いて同十年、敬雄は平田篤胤(あつたね)の門に入った。三河における平田篤胤の最初の門人であった。
 敬雄の紹介で平田門下生になった者は一九人に達した。平田篤胤の後を継いだ平田鉄胤(かねたね)にも敬雄の紹介で三河・遠江(とおとうみ)の三一人が入門した。こうして、東三河における平田国学はしだいに浸透していった。
 嘉永(かえい)元年(一八四八)、敬雄は羽田文庫を設立した。羽田文庫は正式の名称を羽田八幡宮文庫といい、渥美郡羽田村の羽田八幡宮境内に設けられ、東海地方における近代的な図書館の先駆ともなった異色の文庫である。
 敬雄は多くの友人知己の協力を得て、一五人の世話人の発起で一口三両の文庫造立講を結んだ。その講によって集めた金一八〇両をもとに、二間に三間(二〇平方メートル)の文庫を建てた。藩主松平信古(のぶひさ)も三七巻の本を奉納するとともに、文庫永続料として毎年米一〇俵を贈ることを約束した。さらに、三条實萬(さねつむ)や水戸斉昭(なりあき)をはじめ、吉田本町の饅頭(まんじゅう)屋の主人であった佐野蓬宇(ほうう)なども多くの本を奉納した。安政三年(一八五六)には「松陰(しょういん)学舎」という閲覧所も建てられ、完全に図書館の形態を備えた。慶応三年(一八六七)には蔵書も一万巻を越えた。また、知名の学者であった野之口隆正(ののぐちたかまさ)が来訪し講義をおこなった。
 明治元年(一八六八)、朝廷によって京都に皇学所が設けられた。講官頭取に平田鉄胤、そして九人の講官のうち、敬雄を含めて三河出身者三人が任命された。三河が平田国学の中で重きをなしていたことがわかる。
 幕末になると国学のほかに医学・洋学も発達した。医学では、恐ろしい伝染病であった天然痘を予防する種痘法が伝わり、種痘の実施は数年間で全国に広がった。時期的にははっきりしないが、吉田でも嘉永年間(一八四八~五四)八名郡藤ヶ池村(下条東町)で鈴木玄仲(げんちゅう)が、少し遅れて吉田下り町(花園町)で浅井弁安(べんあん)が実施したと伝えられている。
 洋学の先覚者に、つねに新しい学問や知識の週得に意欲を燃やした柴田善伸(ぜんしん)がいる。伊能忠敬(いのうただたか)に測量技術を学んだ彼は、文政三年(一八二〇)、富士見新田開発に際して牟呂沖新開掛となり、自作の測量器械で海岸線を測量した。四〇歳を過ぎて善伸は江戸の蘭医大槻磐水(おおつきばんすい)に師事し、今でいう通信教育で蘭学を学んだ。彼が手に入れた医学・蘭学の書は、当時その気配すらなかった吉田藩に西欧の新知識をもたらした。

柴田善伸自作の測量器械

 また、吉田藩最初の英学者として穂積清軒(ほづみせいけん)が知られている。清軒は二〇歳のときから蘭学を学び、文久二年(一八六二)には幕府が開設した軍艦操練所の翻訳方に採用された。慶応二年(一八六六)、藩主信古(のぶひさ)の命により藩士に洋学を教えた。維新後の明治四年(一八七一)、彼は吉田城二の丸跡で好問社という英学塾を開いた。
 慶応三年には洋学修業のため、吉田藩士七人が江戸に派遣されている。この中には後年の三浦碧水(へきすい)や中村道太(みちた)らもいた。
 
民俗学の祖 菅江真澄
 菅江真澄(すがえますみ)はわが国民俗学の祖として有名である。本名は白井英二。宝暦四年(一七五四)、吉田領内高須(高洲町)に庄屋白井八兵衛の子として生まれた。天明三年(一七八三)の春、彼は三河を離れ、四六年四か月にわたって信州・奥羽・蝦夷地を遊歴した。その間に彼が書き残した日記・地誌・随筆は一三五冊にも及ぶ膨大な量に達する。真澄の紀行は総称して「菅江真澄遊覧記」と呼ばれ、東北各地・アイヌの民俗行事、民具、習俗を記録している。
 真澄は子どものころ、吉田札木町の豪商であり、文化人でもあった植田義方(よしえ)に学問の指導を受けている。
 真澄と義方の交際は三〇年以上の長きにわたっており、彼はオロシャ(ロシア)の銀貨をはじめ、異郷の珍しい品を旅先から何度も義方に送っている。

菅江真澄画像 菅江真澄研究会提供