寺子屋に通う子どもは男子が主で、女子の多くは針師匠について裁縫を習う程度であった。藩校と同じく男女差別があったといえる。
吉田の寺子屋はおよそ二〇〇か所あったといわれ、そのほとんどが幕末に開かれた。明治になって学制の発布と寺子屋廃止の通達により廃止となった。筆子数は数人から二〇、三〇人程度までが多かったが、吉田指笠(さしかさ)町の願成寺(がんじょうじ)の筆子数は一五〇人もいた。
当時の男子の就学率はかなり高かったと考えられる。たとえば、高足(たかし)村には三か所(円通寺・高林寺・医師宅)の寺子屋があり、習字と読みを教えた。筆子数は合わせて一一〇人であった。安政五年(一八五八)の高足村の戸数二一五戸、人口九〇〇人からするとかなりの比率だといえる。想像以上に当時の庶民の教育水準や教育熱が高かったことがわかる。
入門の年齢についてのきまりはなかったが、七、八歳になると通い始め、これを寺入りとか登山といい、およそ四年間学んだ。入門の時期は、おおむね正月十一日または二月の初午の日で、親が手習い道具を入れた文庫と机を持参した。入門料としてだいたい二五〇文から三〇〇文ほど支払った。また、授業料は盆と暮れ二回で、入門料と同額程度を払った。寺子屋の年間授業日数は二〇〇日くらいで、授業時間は毎日朝五ツ時(午前八時)から夕七ツ時(午後四時)ごろまでであった。
寺子屋の図 渡辺崋山「一掃百態」より 田原町蔵
学習内容は、一般に読み・書き・そろばんといわれるが、大部分の寺子屋では習字が中心であった。手習いは、師匠の所へ半紙を持参して一枚ずつ手本を書いてもらって読み方を学び、次に文字を覚えるまで習字に励んだ。
手本の文字は、船町の大口喜園(きえん)の寺子屋を例にすると、「いろは」にはじまり、次に町付(吉田の町名)、村付(吉田領内の村名)、町内名付(付近に住んでいる人々の名前)、国尽(くにづくし)(日本全国の国名)の順序で行われた。ここまで習うのに三年めの中ほどまでかかるのが普通であった。次に学ぶのは「是非(ぜひ)短歌」で、筆子の心得を歌の形に作ったものである。こうして、日常生活に必要な文字をだいたい習い終えたのである。さらに、男子は商人として必要な文字を織り込んだ「商売往来」、女子は東海道の宿名を歌の形にした「都路往来」などに進んだ。何にしても、やることは手習いばかりであり、しかも、常時師匠がついているわけではなかったので、習うというより遊ぶ方が主であったようである。しかし、師匠と筆子の人間関係は親密であり、筆子は師匠を親のように敬った。