渡辺崋山と吉田の画人

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 渡辺崋山(かざん)は寛政五年(一七九三)、江戸田原藩邸で生まれ、通称は登(のぼり)といった。天保十年(一八三九)蛮社の獄で捕らえられた後、田原に蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、同十二年十月、四九歳をもって田原で自刃した。崋山は少年時代から生計を助けるための内職として画を描いた。
 吉田と崋山の関係は非常に深い。吉田には垉六(ほうろく)町(花園町)の商人で、俳人でもあった鈴木与兵衛(三岳)をはじめ知人も多く、与兵衛らの仲介で崋山蟄居中の多くの作品が吉田に流れてきている。
 「猛虎図(もうこず)」は崋山四六歳の作品で前芝村の加藤家に伝来したものである。加藤広正は東三河に聞こえた豪農として吉田・田原両藩の御用達を勤め、その貸金は莫大であった。田原藩が崋山に描かせ、借財の代償の一部として加藤家に贈ったのが「猛虎図」であるが、今は当地にはない。

渡辺崋山 「猛虎図」

 また、吉田下リ町(花園町)の浅井家にも、崋山筆「ヒポクラテス像」が伝わっている。
 現在の知名度では渡辺崋山に譲るが、当時、その名は崋山をしのぐといわれた吉田の画人に恩田石峰(おんだせきほう)(一七七五~一八四七)がいる。有名なエピソードに、田原の素封家が屏風を新調した時、崋山の申し出を断り、彼に内緒で名声のあった石峰に描いてもらうのに苦労したという一件がある。石峰は安永四年(一七七五)に曲尺手町の生け花師匠の子として生まれた。崋山より一八歳の年長である。円山応挙の高弟であった渡辺南岳(なんがく)に師事して画才を認められたが、その後帰郷し、享和ごろより活躍した。代表作に、「三士桃苑(とうえん)図」のほか「猿図」「琴棋(きんき)書画図」「孔雀(くじゃく)図」「波涛(はとう)図」などがある。

恩田石峰 「三士桃苑図」 東観音寺蔵

 吉田の画人として、石峰に次ぐものに稲田文笠(いなだぶんりつ)(一八〇八~七三)がいる。江戸の狩野探玄(かのうたんげん)や谷文晁(たにぶんちょう)に画を学んだ後、各地を写生旅行して天保八年(一八三七)、吉田に帰った。石峰の没後は吉田藩に見込まれ、藩の御用画師に登用された。代表作に、「浪(なみ)に鳥図」「花鳥図絵馬」などがある。
 原田圭岳(けいがく)(一八〇三~八五)は石峰、文笠の後を継いだ吉田画壇のリーダーである。山水画・花鳥画・人物画をこなす画域の広い画人であった。代表作に、「老松図屏風」「十二景図屏風」などがある。