和歌は、賀茂真淵(まぶち)の指導を受けた吉田の富商植田義方(よしえ)や鈴木梁満(やなまろ)などを中心に多くの人々に支持された。義方は吉田の富商高須嘉兵衛の二男として享保一九年(一七三四)に生まれ、植田家の養子となった。義方は祖父が賀茂真淵といとこの間柄にあり、真淵の影響で風流の道に励んだ。彼は俳句・能楽でも名を知られ、また、菅江真澄(すがえますみ)との交際でも知られる吉田の傑出した文化人である。
吉田の能楽は戦国時代末期の酒井忠次(ただつぐ)時代から支持され、江戸時代にも吉田城内や吉田各所の寺院や本陣などで上演された。幕末期の名手とされている者の中には、家老などの武士にまじって町人の名も見える。安海熊野社には、藩主大河内松平家旧蔵の室町期から江戸期にかけての能・狂言面や能装束・狂言衣装が残されている。
能装束 安海熊野社蔵
松尾芭蕉(ばしょう)を始祖とする蕉門俳諧を吉田に広めたのは、古市木朶(もくだ)である。木朶は享保一二年(一七二七)に生まれ、魚町で宿屋を営むかたわら東三河俳壇の中心人物として活躍した。彼は芭蕉百年忌にあたる寛政五年(一七九三)、追悼集「松葉塚」を同志とともに刊行した。岩屋山麓にある「かすむ日や海道一の立仏」の句碑の句は木朶の作である。
佐野蓬宇(ほうう)は文化六年(一八〇九)に生まれ、吉田俳人の中心的存在であったが、蓬宇も吉田本町の萬屋という饅頭屋の主人であった。
芭蕉にまつわる句碑は市内各所にある。松尾芭蕉は貞享(じょうきょう)四年(一六八七)冬、吉田に来て、「ごを焚(たい)て手拭あぶる寒さ哉」という句を残しているが、この句を刻んだ松葉塚が下地聖眼寺(しょうげんじ)に、「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」という句碑のある旅寝塚が湊神明社に建立されている。その他にも、二川妙泉寺に紫陽花(あじさい)塚、小松原東観音寺に木槿(むくげ)塚などがある。