活気づく町人文化

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 貨幣経済・商品経済の発展によって、吉田の町人や富農などが文化的な活動を盛んにおこなうようになった。それには当時の国学の広まりや寺子屋教育の普及などによる文化レベルの向上も大いに影響していた。天保十三年、時習館の教授だった中山美石(うまし)がおこなった在中教諭という社会教育講座には、藩士のほか吉田の町人たちなど一般聴衆が一三〇〇人も集まった。吉田の町人にこのような講座を受け入れる文化的風土が培われていたことを示す好例である。
 和歌は、賀茂真淵(まぶち)の指導を受けた吉田の富商植田義方(よしえ)や鈴木梁満(やなまろ)などを中心に多くの人々に支持された。義方は吉田の富商高須嘉兵衛の二男として享保一九年(一七三四)に生まれ、植田家の養子となった。義方は祖父が賀茂真淵といとこの間柄にあり、真淵の影響で風流の道に励んだ。彼は俳句・能楽でも名を知られ、また、菅江真澄(すがえますみ)との交際でも知られる吉田の傑出した文化人である。
 吉田の能楽は戦国時代末期の酒井忠次(ただつぐ)時代から支持され、江戸時代にも吉田城内や吉田各所の寺院や本陣などで上演された。幕末期の名手とされている者の中には、家老などの武士にまじって町人の名も見える。安海熊野社には、藩主大河内松平家旧蔵の室町期から江戸期にかけての能・狂言面や能装束・狂言衣装が残されている。

能装束 安海熊野社蔵

 松尾芭蕉(ばしょう)を始祖とする蕉門俳諧を吉田に広めたのは、古市木朶(もくだ)である。木朶は享保一二年(一七二七)に生まれ、魚町で宿屋を営むかたわら東三河俳壇の中心人物として活躍した。彼は芭蕉百年忌にあたる寛政五年(一七九三)、追悼集「松葉塚」を同志とともに刊行した。岩屋山麓にある「かすむ日や海道一の立仏」の句碑の句は木朶の作である。
 佐野蓬宇(ほうう)は文化六年(一八〇九)に生まれ、吉田俳人の中心的存在であったが、蓬宇も吉田本町の萬屋という饅頭屋の主人であった。
 芭蕉にまつわる句碑は市内各所にある。松尾芭蕉は貞享(じょうきょう)四年(一六八七)冬、吉田に来て、「ごを焚(たい)て手拭あぶる寒さ哉」という句を残しているが、この句を刻んだ松葉塚が下地聖眼寺(しょうげんじ)に、「寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき」という句碑のある旅寝塚が湊神明社に建立されている。その他にも、二川妙泉寺に紫陽花(あじさい)塚、小松原東観音寺に木槿(むくげ)塚などがある。