朱印地を持つ寺院には、東観音寺(とうかんのんじ)百二石、普門寺(ふもんじ)百石、悟真寺(ごしんじ)八十石、赤岩寺(せきがんじ)五十石、全久院三十六石余正宗寺三十六石、太平寺三十五石、龍拈寺(りゅうねんじ)二十五石など一九寺があった。
また、臨済寺は百石の除地があった。同じく朱印地を持つ神社には、賀茂神社百石、安久美神戸(あくみかんべ)神明社三十石、吉田神社三十石など一六社あった。
しかし、土地からの収入だけでは寺社を維持できるものではなく、吉田の町人や農民の布施(ふせ)・賽銭(さいせん)その他多くの講などによって補われ、仏事・祭礼などは吉田の町人や農民の信仰によって支えられた。
吉田の町人の信仰に支えられ、現在に引き継がれている主な神事に、安久美神戸神明社の鬼祭、湊(みなと)神明社の御衣(おんぞ)祭、吉田神社の祇園(ぎおん)祭がある。
鬼祭は、天狗(てんぐ)と赤鬼の「からかい」で有名である。この鬼祭がおこなわれる安久美神戸神明社は、天慶(てんぎょう)三年(九四〇)の創建と伝えられる。平安中期の平将門(たいらのまさかど)の乱に際し、平定を祈願した朝廷が伊勢神宮への礼として飽海(あくみ)郷を献上したことに由来する。そして、神領の安泰と繁栄を祈願して始まったのが鬼祭である。
元禄期(一六八八~一七〇四)、吉田の町は急速に整備されてにぎわい始めた。それとともに、田楽の一部であった赤鬼がタンキリ飴を撒きながら氏子の町内を走り回るという神事が都市的祭礼として変わっていったのであろう。
鬼祭の図 司守敬氏蔵
御衣祭は町家の女子の祭として吉田名物のひとつになった。東三河の犬頭糸(五〇ページ参照)は古く奈良・平安の昔から名高く、朝廷に献上されていたほか伊勢神宮に対しても白糸を奉納する習わしがあった。御衣祭は、八名郡大野の赤引糸(あかひきのいと)を三ケ日の初生衣(うぶぎぬ)神社で織りあげ、経路に変遷はあったが吉田湊神明社へ運び、吉田船町から船で伊勢神宮に奉納する祭である。
御衣祭がおこなわれる四月十三、十四日の両日には、婦人たちは、紡績・機織(はたお)り・裁縫などをいっさい休み、また、寺子屋の手習いも休みとなった。各町家の一三、四歳以下の女児たちは美しい晴れ着に盛装し、御衣歌を歌いながら行列を組んで町を練り歩いた。
御衣祭 「三河国吉田名蹤綜録」より 和田元孝氏蔵
吉田神社の祇園祭の花火は、元禄年間より全国に知られるようになった。吉田神社はもと天王社といい、京都の八坂神社に端を発する天王信仰が基になっている。平安時代、都に疫病が流行すると人々は怨霊(おんりょう)のしわざと考え、怨霊退参の呪術(じゅじゅつ)をおこなったことが天王信仰の起源である。
天王社祭礼 「三河国吉田名蹤綜録」より 和田元孝氏蔵
吉田の祇園祭の花火は、寛政九年(一七九七)の東海道名所図会にも紹介され、滝沢馬琴(ばきん)に「吉田の今日の花火天下一」とまで激賞された。
一方、寛文(かんぶん)期(一六六一~七二)以後、町人・農民による地蔵などの石仏の建立や庚申講(こうしんこう)・伊勢講・秋葉講・金毘羅(こんぴら)講・稲荷(いなり)講などさまざまな講をつくることが盛んになった。たとえば、庚申講では庚申待といって、六〇日に一度巡ってくる庚申の日に無病息災、延命長寿、五穀豊饒(ほうじょう)、家内安全などを願って組の者が夜を徹して青面金剛を祭り、飲み食いをした。市内には庚申塔が一〇〇余基残っている。
町人や農民たちの中には、伊勢参拝の旅をする者も増えてきた。江戸時代の人々にとって、一生に一度は伊勢参りをすることが夢であった。庶民たちの間には伊勢講を結び金を積み立てて、抽選または順番で代表の者が伊勢に参詣することが盛んにおこなわれた。
とくに、「おかげ年」といわれる特別の年には、集団で伊勢神宮をめざして参詣の旅にでかける現象が起きた。これを「御蔭参(おかげまい)り」と呼び、また、家族の許可もなしに無断で家を抜け出したので「抜け参り」という別名もあった。
御蔭参りは、宝永二年(一七〇五)、明和八年(一七七一)、文政十三年(一八三〇)などにみられ、およそ六〇年周期で繰り返された。宝永二年の日本全国からの参拝者は、閏四月九日から五月二十九日までの五〇日間におよそ三六二万人にのぼり、一日当たり約七万二〇〇〇人というすさまじい数になる。また、文政十三年には、実に五〇〇万人が伊勢参りをしている。これは当時の全国人口の六分の一にもあたる。
こうした大ブームのなか、大人ばかりか子どもまでも貧富の別なく参詣した。貧民は施(ほどこ)しを受けるための柄杓(ひしゃく)一本を持つだけで出発した。途中の町々では「施行(せぎょう)」といって握り飯や赤飯・茶・手ぬぐい・わらじなどを振る舞い、また無料で宿を貸し、無賃の駕籠(かご)・馬などを提供した。文政十三年のおかげまいりでは、吉田の町々でも七月上旬から施行が始まり、無賃の駕籠四一〇挺・馬六六疋・人足二五五〇人余が出た。
このような御蔭参りは、当時の人々の信仰の強さの表れともいえるが、信仰にかこつけたレジャーの旅だったともいえよう。また、商工業の発展によって、沿道の町の町人たちにも経済的支援ができるだけの力と、精神的なゆとりが備わって来ていたことがうかがえる。