東海道と吉田

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 江戸時代の主要な交通路には、江戸を中心として東海道・中山道(なかせんどう)・日光道中・甲州道中・奥州道中の五つの幹線があり、これを五街道といった。当時、三遠地方には東海道の付属街道として御油から嵩山(すせ)・三ヶ日・気賀(きが)を経て東海道に合流する本坂通(ほんざかどおり)(姫街道)があった。また、脇街道として、田原に向かう田原街道、八名郡を経て信州飯田に至る別所街道、小坂井を起点に三州街道を経て飯田に至る伊那街道などもあった。

三河の主な街道

 五街道の中でも東海道は、江戸と京・大坂を結ぶ全里程約一二五里(五〇〇キロメートル)に及ぶ最も重要な街道であり、街道筋には江戸防衛のため多くの譜代大名が配置されていた。
 慶長(けいちょう)六年(一六〇一)から、徳川家康は全国支配のため五街道に宿駅(宿場)を置き、物資輸送と幕府役人の通行のための人馬を提供させる伝馬(てんま)制を確立するとともに街道の整備を始めた。いわゆる東海道五十三次はこの時すべて整ったわけではないが、豊橋市域の吉田・二川の二宿は、慶長六年の設立当初からのものであり、吉田宿ではこの年の伝馬朱印状が今も残っている。

伝馬朱印状 慶長6年 1601 豊橋市美術博物館蔵

 慶長九年、幕府は街道の一里(三・九キロメートル)ごとに松や榎(えのき)などを植えた一里塚を築かせ、街道を往来する人馬が正確な距離を知るめやすとした。大きさは五間(九メートル)四方でかなりの規模のものであった。さらに、街道の両側には旅人のために松並木や杉並木が植えられたが、その保護と植え継ぎは周辺の村々に義務づけられ、道中奉行の検査がしばしばおこなわれた。これらの中で豊橋市域で現存するのは、東海道一里塚は東細谷町一里山に、本坂通一里塚は嵩山町井原に、松並木は横須賀町地内と数少なくなった。