吉田宿の戸数は、江戸時代を通じてほぼ一〇〇〇軒であったが、天保(てんぽう)十四年(一八四三)には一二九三軒と増加した。この年の人口は男二五〇五人・女二七七二人・合計五二七七人であった。
宿場は、東海道に面した表町一二か町、裏町一二か町あわせて二四町で構成されていた。なかでも、札木町は最も繁盛した地区であり、本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠屋(はたごや)六五軒など多くの旅宿が密集していた。本陣とは、大名・幕府役人・公家などが宿泊できる高級大旅館のことで、吉田宿には清須屋と江戸屋の二つがあった。中西与右衛門の経営する清須屋の建坪は三二七坪余(一〇八〇平方メートル)を誇っていた。脇本陣は本陣の予備宿であり、本陣と旅籠屋の両方の性格を持つ大旅館であった。旅籠屋は主に一般庶民や公用でない武士などが宿泊した。
宿場には、隣の宿場まで旅人や荷物・文書を運ぶための人足・馬の提供と人馬継立(じんばつぎたて)の業務が命じられた。人馬の継立や御用旅宿の手配を取り扱う施設が問屋場(といやば)で、吉田宿は札木町一か所に置かれた。東海道では、常備の人馬は人足百人、馬百疋と定められていた。それらを供出する方法は、宿によって異なるが吉田では総町二四か町を伝馬(てんま)役町・平役町・船役町・無役町に分け、伝馬役町と平役町がこれを勤めた。伝馬役とは人馬を供出する役のことで、田町・上伝馬町・本町・札木町・呉服町・曲尺手(かねんて)町の六町であった。平役とは人足役のことで、吉田二四町のうち一四町と伝馬役町のうち四町をあわせて一八町であった。こうした役をつとめた町には、屋敷地に対する税が免除されるという特権が与えられた。しかし、伝馬役の家数は、貞享(じょうきょう)元年(一六八四)には二二八軒あったものが、一二〇年後の享和(きょうわ)二年(一八〇二)には一八二軒に減った。四六軒がつぶれたわけで、その分の負担が各町に上乗せされている。
吉田宿風景 「三河国吉田名蹤綜録」より 和田元孝氏蔵
歌川広重「堅絵東海道 吉田」
二川宿本陣資料館蔵
人馬継立の種類には、無料のもの、公定賃銭である御定(おさだめ)賃銭、および双方で値を決める雇上(やといあげ)(相対(あいたい)賃銭)があった。無料のものには、将軍が許可した御朱印、老中・京都所司代などが発行した御証文、道中奉行の触書その他を伝達する場合などがあった。御定賃銭は一般より安く、公用通行者に限られた。雇上は御定賃銭の二倍ほどで、庶民はすべて相対賃銭であった。
安政五年(一八五八)の資料によれば、無賃の人馬は上り下り合わせて人足の二八%、馬の二%にあたり、幕府からの助成があったとはいえ、吉田宿の大きな負担であったことに違いはない。
また、時代とともに交通量は増加し、人馬の需要が多くなった。表のように吉田宿の人足使用数は年々増え続け、享保(きょうほう)八年(一七二三)に一万六〇〇〇人余だったものが、安政五年には実に七万五〇〇〇人余に達している。吉田宿で負担しきれない不足分は、近隣の村々に助郷(すけごう)という形で転化され、宿場の人々や農民たちを疲弊させていった。
吉田宿 継立人足数の変化 |
区分 | 享保8年 (1723) | 宝暦10年 (1760) | 安政5年 (1858) |
宿人足 | 15,791 | 24,435 | 27,971 |
助郷人足 | 768 | 16,513 | 47,296 |
合計 | 16,559 | 40,948 | 75,267 |
「豊橋市史第二巻」より |
吉田宿の飯盛女
宿場の旅籠屋には飯盛女(めしもりおんな)を置くことが許されていた。その人数は制限されていたが、地域や旅籠屋の規模などにより一律ではなかった。その後、文化十二年(一八一五)以後は一軒につき二人までと定められた。享和(きょうわ)二年(一八〇二)、都に上る途中吉田を訪れた滝沢馬琴(ばきん)の本によれば、吉田の飯盛女は一〇〇余人と記されている。
飯盛女は大部分が近郷の貧農の子女であり、貧困のため一〇年とか一五年とかの年季質入れの形で身売りされた。彼女たちは、日ごろはお粥(かゆ)や雑炊(ぞうすい)しか与えられず、つねにお腹を空かしていた。そこで、客に飯をオテンコ盛りにし、なるべく多く残させ、お流れで飢えをしのいだことから飯盛女と呼ばれた。
吉田の飯盛女は、東海道の宿場の中でも有名であり「吉田通れば二階から招くしかも鹿(か)の子の振り袖が」などと俗謡にうたわれた。「諧風柳多留(かいふうやなぎだる)」にも、この俗謡を材料にして、
「吉田宿皆あをむいて通るなり」という川柳の名作が収められている。