その後、天正十八年(一五九〇)、池田輝政が吉田城主となって城下町を拡張整備した際、「四ッ家」を「船町」と改め浅井氏を庄屋に任じた。
元禄二年(一六八九)の庄屋与次右衛門の口上書によれば関ヶ原の合戦に際し、延べ八〇艘ほどの船を出して協力したことにより城主池田輝政から以後船役を命じられ、地子は免除されたとある。また、船の建造費や修築費をまかなうために、城主が江戸に送る廻米の取り扱いや、積み出しの荷物と船を利用する旅人から「上前銭(うわまえせん)」を徴収する特権を得た。たとえば、油樽一樽につき一二文半、串柿一個につき二文半などである。
船町の所有する船の数は、正徳(しょうとく)二年(一七一二)の「吉田惣町差出帳(さしだしちょう)」によると江戸廻船四艘・伊勢尾張通船一七艘であった。
船町には吉田大橋と吉田湊があり、鵜飼船(うかいぶね)の上下する吉田川舟運の終点として、さらに、伊勢をはじめ遠く江戸への航路の起点として繁盛をきわめた。吉田湊からは伊勢へ渡る者が多数をしめ、年間三~四〇〇〇人ほどの客があった。御蔭参(おかげまい)りのあった享保十五年(一七三〇)は、五月上旬より八月上旬までに実に三万四八〇〇余人が吉田・伊勢間を往来した。船賃は一人につき六六文で、そのうち一三文が上前銭であった。
伊勢出帆 「参河国名所図絵」より 古橋懐古館蔵
また、寛政(かんせい)十年(一七九八)の文書によれば、当時の船運賃は、百二〇石積(こくづみ)で銭七貫四〇〇文、百石積で銭六貫二〇〇文、八十石積で銭五貫文で、一貫文につき二〇〇文を上前銭として徴収することが記されている。つまり、運賃の二割が上前銭であった。
船番組は船町が船役を命ぜられた時に組織され、この船番組の仲間の者が上前銭を徴収する権利を得た。天和(てんな)元年(一六八二)の船番組構成者は二九人で、口数は五〇口であった。その筆頭は七口を持つ庄屋与次右衛門であり、口数に応じて上前銭が分配された。
この船番組の特権をめぐって、他の村としばしば紛争が起きた。
寛文(かんぶん)十年(一六七〇)、船番組から領主に対し、対岸の下地村は九郎八郎方の前に船着場をつくり、勝手に荷物および渡海する旅人の取り扱いをしているとの訴えがあった。船番組の上前銭徴収の権利を無視しているだけでなく、船役の任務を侵すものだというのである。裁決の結果は、船町の特権を侵害したとして九郎八郎は牢舎入り、下地村の船着場は取り除かれた。
その他、前芝村や高師村・大崎村、吉田宿商人などと紛争が起きたが、どれも船町の船番組の主張がとおり特権は守られた。