鵜飼舟は、長さ七間半(一三・六四メートル)幅四尺五寸(一・三六メートル)で、急な流れにも適するように細長く造られておりこれに舟人が二人ずつ乗り込んで荷物を送った。上流から吉田・下地・前芝までのおよそ一一里の距離を下るには、普通九時間から一〇時間かかった。上りは奥三河への日用雑貨などを積んだ。できるだけ帆を利用したが、風のない時は一人が櫂(かい)や竿(さお)を使い、もう一人は川べりへ上って舟を綱で引っ張った。
延享(えんきょう)四年(一七四七)の「鵜飼舟掟(おきて)証文之事」によれば二日間か三日間で一往復し、舟人一人の賃金は二日がかりの場合は白米四升と銭四〇文、三日の場合は白米四升六合と銭七二文であった。
鵜飼舟の使用は幕府の許可を必要とし、勝手に増やすことは許されなかったが、権利の売買は許されていた。そのため、舟の売買がおこなわれたが、買主は大部分が乗本村の大舟主、為屋(ためや)八左衛門であった。
乗本村と長篠村の舟の合計数は二六艘であった。一年間に舟一艘が吉田・前芝へ八〇回前後往復したので、二六艘がすべて操業したとすると二〇〇〇回余り往復したことになり豊川に白い帆を張った鵜飼舟の姿を見ない日はなかったということになる。
鵜飼船数 |
村名 | 荷物請払所 | 舟主数 | 舟数 | 舟人数 |
乗本村 | 1ヶ所 | 10人 | 20艘 | 40人 |
長篠村 | 3 | 6 | 6 | 15 |
合計 | 4 | 16 | 26 | 55 |
「豊橋市史第二巻」より |
鵜飼舟 「三河国吉田名蹤綜録」より 和田元孝氏蔵
信州方面や奥三河から吉田へ送られる荷物は、新城付近までは馬による陸上輸送であり、そこからは豊川の舟運で輸送された。新城は陸運と舟運の中継地として「山の湊(みなと)」と呼ばれるほどにぎわった。
新城街繁昌之図「参河国名所図絵」より 渡辺鑵治氏蔵
信州からは中馬(ちゅうま)と呼ばれる馬稼ぎが盛んにおこなわれたが、三河でも津具などの山間部を中心に信州方面まで物資を輸送し、三州馬と呼ばれた。中馬の行き来した道は中馬道と呼ばれた。中馬には農耕馬が使用され、農閑期の副業として始まったといわれている。
街道の宿場では、次の宿までリレー方式で荷を送る伝馬でおこなわれたが、中馬稼ぎでは、一人で数疋の馬をひき、途中で積みかえをしないで目的地まで運ばれた。東海道などの人馬輸送が公的なものとすれば、中馬稼ぎは私的運輸であり、本来は違法なものであった。そこで、宿場側から訴訟が何回となく起こされたが、租税負担のため欠かせないとの馬稼ぎの百姓側の言い分が通り、明和元年(一七六四)、幕府から公認された。耕地の少ない寒村の農家にとっては魅力ある現金収入だったのであろう。中馬道を通って、信州方面からは煙草・椀・柿など山国の特産物が、東海道方面からは茶・塩・魚・綿などの生活物資が運ばれた。文化十四年(一八一七)の記録によれば、飯田と吉田の出入り荷駄数は三五〇〇駄近くに達した。
東上分一番所
幕府は、吉田川(豊川)の舟運の盛んなことに着目し、寛永二十年(一六四三)、東上村(宝飯郡一宮町)に番所を設け、豊川を通行する物資に課税した。
奥三河から送り出される産物に対し、品目ごとにその価格の一〇分の一から一〇〇分の一までの六段階に分けて運上金を徴収したので、この番所は、分一番所(ぶいちばんしょ)と呼ばれた。奥三河からの下り荷物のみに課税したのである。文政十年(一八二七)から天保七年(一八三六)までの一〇年間に取り立てた運上金は六〇〇〇両にも及び、幕府財政の一助となった。
運上金の税率と品物 |
税率 | 品物 | 具体例 |
一〇分一 | 材木や竹材 | 桧 杉 松 |
二〇分一 | 木皮 | 椎皮 桜皮 |
三〇分一 | 木材加工品 | きね 荷棒 |
五〇分一 | 石製品 | 砥石(といし) 鳥居 |
七〇分一 | 雑貨 | 半紙 茶 |
一〇〇分一 | 木製品 | 下駄 重箱 |
東上分一番所址