姫街道と嵩山宿

157 ~ 160 / 383ページ
 本坂通(どおり)(道)は、東海道を御油宿から分かれ、当古(とうご)、嵩山(すせ)、本坂峠、三ヶ日・気賀(きが)を経て、見付(みつけ)宿で再び東海道に合流する総里程一五里一四町(六〇キロメートル)の東海道の付属街道である。明和元年(一七六四)からは東海道の各宿と同じように伝馬役を勤めるようになり、気賀には関所も置かれた。本坂通は「姫街道」とも呼ばれる。この名の起源については、承和(じょうわ)十年(八四三)ごろ東海道は一〇年ほど中絶した後再開したので新道と考えられ、今までの道が「ひね(旧い)道」と俗称された。これが江戸時代に東海道の今切の関を避けた女性の行列のイメージと重なり、「ひめ街道」と呼ばれるようになった。
 本坂通はバイパスであったが、江戸時代の中期、思いもかけずにぎわった時がある。宝永(ほうえい)四年(一七〇七)十月四日、東海道筋を襲った宝永の大地震は浜名湖口を大津波で洗い、今切渡航が不可能となった。東海道の通行は止まり、大名行列はもとより一般の通行もすべて本坂通へ迂回したため交通量は急増した。翌五年の気賀関所の通行記録によれば、この年、五〇〇人以上の大行列は三六件に達した。もともとが付属街道であり、そうした体制も整っていない嵩山をはじめとする近隣農村は助郷の負担で困窮することになった。同年四月、嵩山(すせ)村の庄屋・組頭・総百姓代ら七人が江戸に行き、道中奉行に苦しさを訴え出ている。

本坂道三方原回路図 豊橋市美術博物館蔵

 当村は、山方の田畑農業を第一としている農村である。馬も本荷一駄四〇貫を二つにも三つにも分けて運ぶ力のない女馬ばかりで、しかも村内にいる四〇頭のうち間に合うものは半数にも足らない。しかるに先頃さる御大名様が御通りの節、そのお先ぶれが到来したので当村は馬継ぎ場ではなく、かつ、継ぎ送る人馬もない旨申し上げたが御聞き届けなく、そのまま御通りなされようとした。よってその前日村方から御泊まり宿までまかり越し、お断り申し上げたが御聞き入れないまま当村を御通りになった。村には馬の準備はなく御通行の方から種々おしかりを受け、また殴られたりして村中は毎日混乱している。このような有様では耕作もできないので、「百姓ひしと潰(つぶ)れ申し候」と。
 一方、東海道の方は反対に交通量が激減し、ひにくにも浜松から吉田にいたる六か宿では、これまた宿駅保持が困難となった。宝永六年(一七〇九)正月、宿役人らが江戸に出て道中奉行に訴えでている。
 六か宿の訴を要約すると、地震以来、諸大名方が本坂御通行をなさるため、伝馬人足などが不要となってはなはだ困窮していること、その原因となっている今切渡海の船路を早急に改修して、諸大名の東海道通行を旧に復するように促していただきたいこと、諸大名の往来途絶により困窮している六か宿本陣旅籠屋の助成として、一宿につき金三千両を拝借させていただきたいことの三点である。
 幕府としても放置できず、今切渡海の船路改修工事をおこない、宝永七年三月、諸大名に対して本坂通の通行禁止令を出した。しかし、その後も本坂通の通行が続いたため幕府は享保二年(一七一七)、享保二十年と再三にわたる禁止令を出して本坂通の通行を禁じた。これにより、大名・旗本の本坂通の通行は減少したが、四キロメートル余の今切渡船を敬遠する公家や女性の本坂通利用は絶えなかった。そのうちの最大規模のものとしては、享保三年、将軍吉宗の生母浄円院が紀州から江戸へ向かう数千人の大行列がある。この大通行に際し、嵩山~袋井間の六宿と気賀村では総数で一万人を越える人足集めに苦しんだ。また、変わり種としては享保十四年、清国商人が将軍吉宗に献上した象の通行があり、街道は一目見ようとする人々でにぎわった。
 以後も明治に至るまで一〇〇〇人規模の人足集めを要した大通行は、嵩山宿や気賀宿の記録によるだけでも一二件を越え、街道沿いの村々を困惑させた。

吉田宿と二川宿のすがた
吉田宿絵図 元治元年 1864
夏目あき子氏蔵


二川宿絵図
二川区有文書