二川宿は東の白須賀宿へ一里一七町(五・八キロメートル)、西の吉田宿へ一里二〇町(六・一キロメートル)の距離にあり町並みの長さ一二町一六間(一・三キロメートル)の宿場町であった。文政三年(一八二〇)の記録によると、二川宿の家数は三〇六軒で、そのうち本陣・脇本陣が各一軒、旅籠屋が三〇軒であり、人数は一二八九人であった。
問屋役と本陣役は度重なる火災によって何度も交代を余儀なくされた。最初は後藤五左衛門(ござえもん)であったが、享保二十年(一七三五)の火災によって困窮し、後に問屋役を、寛政五年(一七九三)には本陣役を紅林(くればやし)権左衛門に譲った。しかし、紅林家も火災にあい、文化三年(一八〇六)に馬場(ばば)彦十郎が本陣役を受け、以後明治維新にいたるまで約六〇年間にわたって馬場家が本陣を経営した。
馬場家本陣間取図 二川宿本陣資料館「展示案内」より
馬場家本陣は、間口一七間半(三二メートル)、五二五坪(一七三三平方メートル)の敷地に建坪一八一坪余(五九七平方メートル)で宿内随一の建物であった。本陣を引き継ぐための諸費用は四三八両余であったが、この費用の調達のために多額の借金をし、馬場家の困窮の元となった。
馬場家には、文化四年から慶応二年(一八六六)までの六〇年間の宿帳が残されている。それによると、本陣の利用累計は合計三五〇〇回を上回った。文化五年には宿泊四回、小休一五回、昼休五回、その他二回の計二六回であり、以降多少の増減があるものの少しずつ増えていった。しかし、幕末になると急増し、文久三年(一八六三)に最高となり、一六五回を数えた。これは当時の不安定な政治情勢を反映し、大名や公家などの往来が激しかったからであろう。
また、利用の内訳は、宿泊が二五%に対して、小休が五八%・昼休などが一八%で、小休止の場所として多く利用されている。二川宿は浜松と吉田といった比較的大きな宿場にはさまれており、他の宿場との位置関係や規模によるものと思われる。
二川宿本陣宿帳 二川宿本陣資料館蔵
利用者をみると官公家や幕府役人が多かったが、二川宿本陣を定宿としていた人は少なく、三河岡崎の滝山寺の六二回、筑前福岡の黒田家の五七回など一部に限られていた。
二川宿本陣の主な利用者 |
利用者 | 藩名 | 宿泊 | 小休 | 昼休 | その他 | 合計 | |
1 | 宮公家 | 12 | 274 | 13 | 299 | ||
2 | 幕府役人 | 30 | 111 | 44 | 3 | 188 | |
3 | 御勅使 | 1 | 146 | 3 | 150 | ||
4 | 毛利家 | 萩藩 | 25 | 72 | 1 | 2 | 100 |
5 | 徳川家 | 名古屋藩 | 19 | 39 | 25 | 5 | 88 |
6 | 御茶壺道中 | 3 | 34 | 5 | 35 | 77 | |
7 | 徳川家 | 和歌山藩 | 19 | 48 | 5 | 3 | 75 |
8 | 島津家 | 鹿児島藩 | 25 | 30 | 4 | 12 | 71 |
9 | 蜂須賀家 | 徳島藩 | 16 | 48 | 5 | 1 | 70 |
10 | 黒田家 | 福岡藩 | 57 | 11 | 68 | ||
11 | 代官 | 25 | 20 | 23 | 68 | ||
12 | 松平(高松)家 | 高松藩 | 12 | 51 | 2 | 65 | |
13 | 滝山寺 | 62 | 62 | ||||
14 | 藤堂家 | 津藩 | 2 | 55 | 4 | 61 | |
15 | 松平(越前)家 | 福井藩 | 6 | 40 | 14 | 60 | |
16 | 御勘定役 | 16 | 25 | 18 | 59 | ||
17 | 日光関係者 | 1 | 56 | 1 | 58 | ||
18 | 浅野家 | 広島藩 | 6 | 43 | 7 | 56 | |
19 | 中泉代官 | 21 | 12 | 23 | 56 | ||
20 | 山内家 | 高知藩 | 13 | 36 | 6 | 55 | |
21 | 池田家 | 岡山藩 | 7 | 43 | 1 | 1 | 52 |
22 | 井伊家 | 彦根藩 | 11 | 37 | 1 | 49 | |
23 | 池田家 | 鳥取藩 | 6 | 36 | 6 | 48 | |
24 | 鍋島家 | 佐賀藩 | 10 | 19 | 1 | 18 | 48 |
25 | 毛利家 | 徳山藩 | 6 | 27 | 10 | 43 | |
26 | 松平(久松)家 | 桑名藩 | 8 | 31 | 1 | 1 | 41 |
27 | 細川家 | 熊本藩 | 16 | 17 | 3 | 1 | 37 |
28 | 小笠原家 | 小倉藩 | 4 | 31 | 1 | 36 | |
29 | 目付 | 8 | 27 | 1 | 36 | ||
30 | 有馬家 | 久留米藩 | 10 | 17 | 6 | 33 |
二川宿本陣資料館「展示案内」より |
諸大名が本陣を利用した場合宿料には特別決まりがなく、出立の際わずかな心付けをおいていくだけであった。
大名は、金銭で支払うのが普通だったが、公家の心付けは、扇子や色紙、短冊の類が多かった。したがって宿料だけで本陣経営が成り立つわけがなく、借入金をはじめ、ほかの収入で支出を補わざるを得なかった。経営はつねに苦しく、しだいに赤字が累積していった。
二川宿本陣