人馬の継立

163 ~ 164 / 383ページ
 吉田宿と異なり、二川宿には人馬継立(つぎたて)や荷物継ぎ送りなど、交通運輸の業務に従う問屋場(といやば)が二川宿と加宿の大岩町に一か所ずつあった。二川中町の問屋場を東問屋場、大岩中町のそれを西問屋場といった。問屋場には、当番の問屋一人・年寄一人・帳付二人・馬指二人がおり、二日交替でその業務にあたっていた。大名や公家などの特別の大通行の場合は、問屋役人全員が出勤して御用を勤めた。
 継立のために二川村・大岩村の両村が用意する人馬は、東海道の宿場の定めによる一〇〇人一〇〇疋で、吉田宿と同じである。急な御用に備えて三〇人二〇疋を除くのはどこの宿でも同じで、実際に使用できたのは七〇人八〇疋であった。
 助郷(すけごう)の村々には、七〇人・八〇疋を使いつくし不足する時だけ、不足分の馬と人足を割り当てる定めであった。しかし、実際には必ずしもこの規定が守られず、宿と助郷間にしばしば紛争が生じた。天明四年(一七八四)に起こった紛争もその一例である。助郷方の言い分は、「宿方が必要以上の人馬を要求するので人馬が不足して困る」というものであった。これに対して宿方の言い分は、「助郷方からの人馬の出し方が要求よりも少ないので、いきおい入用人馬数よりも多く割り当てるようになる」というもので水掛け論となった。
 この問題は長く尾を引き、その後も毎年のように助郷方から宿方への申し立てが続いたが、宿方では取り合おうとはしなかった。ついに我慢しきれず、寛政六年(一七九四)、二川宿助郷の高足村をはじめ三三か村の惣代三人が江戸におもむき、二川宿問屋を相手取り道中奉行へ訴えるまでにいたった。ここまできて、宿方から示談の申し出があり、紛争はようやくおさまった。
 なお、文政三年(一八二〇)の「人馬継立〆帳」によれば年間の伝馬約二万四〇〇〇疋のうち助郷で約五分の一を、人足約四万三五〇〇人のうち助郷で約半分を受け持っている。助郷村にとって、いかに負担が重かったかがわかる。
 
駄賃銭
 宿場で伝馬を利用する場合、吉田宿で述べたように庶民は相手と値をかけあって決める相対賃銭という駄賃(だちん)銭を支払った。
 時代が下るとともに駄賃銭の上昇がめだってくる。利用の仕方によって図のような四種類があった。
二川宿への駄賃銭 吉田・二川宿間距離1里20町(6.1km)
区分本馬一疋乗掛
荷人共
軽尻一疋人足一人
元禄3年(1690)50文52文32文25文
正徳元年(1711)73734736
文政7年(1824)1141147154
慶応3年(1867)567567364278


人や荷物の運び方 二川宿本陣資料館「展示案内」より