助郷の負担割合は、村高から何割か控除されたものが助郷高とされ、高足(たかし)村を例にすると、村高一八七三石に対し、助郷高は一〇四七石であった。そして、この助郷高一〇〇石につき二人・二匹の割合で人馬役が課せられるようになった。
助郷高に応じて各村に割り当てられた人馬数は、さらに村民各自の持高に応じて配分された。土地を持たない水呑百姓には、助郷課役の義務はなかった。
助郷によって村々の受けた打撃ははなはだしく、農村は困窮した。第一に、参勤交代の時期が春や秋の農繁期に重なることである。第二に、馬は老馬であってはならず、人足は一五歳以上六〇歳以下に決められており、農家の中心的な働き手を出さねばならなかった。さらに、助郷村には川除普請(かわのぞきぶしん)・橋場普請などもしばしばあって、これらの課役がいかに重かったかが想像される。
そのため、天明四年(一七八四)、寛政六年(一七九四)、文政十一年(一八二八)ほか、何回も二川宿との間で人馬勤め数をめぐって紛争が起きている。さらに、天保二年(一八三一)には、助郷役を他村に代わってもらおうと、代表が道中奉行に対して向こう二〇か年の代助郷(だいすけごう)を願い出ている。しかし、これが却下されたので同四年、ふたたび代助郷願いを差し出し、ようやく七か年の増助郷(ましすけごう)が許された。このように代助郷や増助郷と呼ばれる追加の村が次々と指定された。
幕末に至ると、とくに黒船来航以降の政治情勢の混乱によって交通量が激増し、宿場や助郷の負担は極限に達した。
慶応四年(一八六八)の維新政府による助郷制度の改革によって、二川宿の助郷は、渥美郡において二二か村、設楽郡において三四か村、八名郡において一六か村、幡豆郡において七一か村、碧海郡において二か村、また遠く紀州伊都郡に八四か村、合計二二六か村にも及んだ。これら遠距離の村では、実際に人馬を出すのではなく、金を納めて負担した。
明治五年(一八七二)、問屋場(伝馬所)と助郷およびこれに関係する一切の課役が廃止され、助郷制度はようやく消滅した。
二川宿助郷の変遷