この時代、村方自治を基礎にして村をひとつのまとまりとして考える自治意識が育ってきた。平和が続くなかで村々は急速に発展し、新田畑の開発が著しく進んだ。そのため、山林原野は次第に減少し、入会地に対する縄張り意識も芽生えてきた。入会地があり余っていた時には、最寄りの村々はそれぞれ都合の良い手近な場所を独占的に利用できたが、入会地が不足してくるとそれが争いのもとになる。
時代とともに、入会争論や水論(用水出入り)・村境論などが吉田領内各地で何度となく起きている。入会争論の例として次の二つをあげる。
文政十二年(一八二九)、神郷(じんごう)村・金田村・長彦村と嵩山村の間で秣場入会争論が起こった。
この地区にあった飯盛山の秣場をめぐり、神郷村・金田村・長彦村は、嵩山村に対して提訴した。その主な内容は、
「近年嵩山村の者が境界から勝手に内に入り、秣(まぐさ)刈り取りをしている。隣村だと思って我慢をしていればそれを良いことに刈り取ってしまい、我々の秣がなくなって困っている。しかも近頃では嵩山村の者は我々三か村の者を追い立て、鎌などの道具を取り上げて乱暴をするなど理不尽の振舞いをしている。また、神郷と金田の両村は、二川宿の助郷を勤めているが、秣の刈り入れができなくて飼料はないというありさまである。このため、助郷役を勤めるのは困難である。」というものである。
これに対して、嵩山村は庄屋・組頭など一〇人連名で返答書を藩の地方(じかた)役所に提出した。
「これらについては偽りである。ただ、相手が理不尽なことを云うことがあれば、鎌などの道具を取り上げ厳しく追い出したこともあった。また、神郷村・金田村の二川宿の伝馬役はこれまで無難に勤めていると思われる。当村の秣場を差し止められては村方の御用馬飼料がなくなってしまう。何卒(なにとぞ)三か村を糾明の上ご理解していただき、今まで通りのしきたりにして欲しい。」という返答であった。
このような事態は、藩役人を相当悩ませたようである。当時の入会紛争の裁判の常識は、旧来の慣習を尊重して双方の申し立てを丸く納め、和解に持ち込むものであった。天保(てんぽう)四年(一八三三)九月に「その場所は年中、入会の四か村共有の秣場として定めるので、今後は仲良くすること」と裁定し、内済証文を取り交わして和解した。この争いは同十一年にも再燃している。
同十四年、旗本中嶋与五郎支配の渥美郡大崎村と吉田藩の東植田村・西植田村・野依村・仏餉村・切反ケ谷村の五か村との間で藻草場入会争論が起こった。藻草とは海草のことで、当時の大切な肥料源であった。同年、双方の村から寺社奉行を経由して評定所に訴状が提出された。取り調べの結果は、双方ともに適当な証拠がないという理由で、吉田領内の五か村の入会を禁止するというものであった。しかし、五か村側では長年のしきたりを取り消され、大切な肥料源を断たれることは農民の死活問題である。そこで、翌弘化(こうか)元年(一八四四)九月、東植田村庄屋を中心に再び訴え出て、前年の決定が不当であることを強く主張したが聞き入れられなかった。十月には、ついに五か村百姓惣代と自称する者二人が江戸で駕籠訴(かごそ)に及んでいる。
藻草入会絵図 弘化3年 1846 石田とも氏蔵
評定所も困りはて、何とか示談に持ち込もうとするが一向にらちがあかない。大崎村は一日だけ一軒二人ずつ入会を認めると譲歩したが、五か村の考えとは大きな開きがあった。翌二年十月、五か村の者は奉行所のお白州に呼び出され「汝らは、大声でおどして聞くやつらではない。納得がいかねば牢にぶっ込む、さあ返答いたせ」などと脅された。そこで、また駕籠訴をした。五か村側の必死のようすがうかがわれる。
改めて証人を交えての取り調べの結果、五か村の言い分を汲んでもらえ、弘化三年(一八四六)七月、評定所は大崎村に対して「汝(われ)らさえ宜(よろ)しければ、人は如何(いか)様にあい成り候とも構い申さぬ心躰(しんてい)とあい見え、不実の願い方」と叱りつけ、結局、争論が起こる以前の状態に戻すことで四年がかりの紛争に終止符が打たれた。