困窮する農村

170 ~ 171 / 383ページ
 江戸時代の一揆の発生原因をみると、天災や飢饉などの直接的な要因もあるが、江戸前期・中期までは領主に対する減租が要求の中心であるのに対し、幕末になるにしたがって、貧しい農民や町人が米商人や高利貸しをターゲットにした打ちこわしが頻発するようになった。この背景には買い占めによって引き起こされる物価高に悲鳴をあげる貧しい町人層の増加と、土地を手放して絶望する貧農層の増加がある。生活を破壊された彼らの持って行き場のない怒りが、富を独り占めにする金持ちに向けられるのも当然の成りゆきであった。
 このような事態を招いた原因を農村側の事情から考えてみる。この時期、農村が内部から崩れて大きく変貌するが、そこには重い年貢負担その他で疲れきった農村の姿があった。
 吉田藩の寛政八年(一七九六)の地方改革についての町奉行・郡(こおり)奉行の上申書によると、領内の困窮村は一八六か村あった。この村々の借金の総額は何と二万両に達し、困窮のほどが推察される。藩としても放置できず、すでに寛政三年には救米(すくいまい)二〇〇〇俵を与えている。しかし、この程度の救済では村の立ち直りも難しく、その後も表のように救米の支出は慣例化し、年貢の取り立てを強化することなどは思いもよらぬ状態であった。
吉田藩の困窮村への救米
年次救米(俵)
寛政3年2,000
寛政4年3,715
寛政5年4,387
寛政6年4,537
寛政7年3,690
「豊橋市史第二巻」より

 こうした現状を打開するため、吉田藩は先の町奉行・郡奉行の意見に基づき、寛政八年、御救金(おすくいきん)という低利の藩資金を貸し付けて村々の借金を解消しようとはかった。しかし、その後もこの援助によって事態が改善されたという様子はなかった。
 これほどまでに農村を疲弊させたのは、村請(むらうけ)制(一二五ページ参照)という制度そのものの欠陥が表れたといってよい。野依村の例でみると、元文(げんぶん)二年(一七三七)、困窮した一二軒の百姓の未進米(未納の年貢米)の利子を村中で負担し、潰れて本百姓から水呑百姓に転落させないようにしている。理由は、村請制により潰百姓(つぶれひゃくしょう)にかかる年貢を負担するより、潰れる前に未進米の利子の負担をした方がまだよかったからである。
 なぜだろうか。潰れのメカニズムを考えるとはっきりする。困窮した百姓は買い手のつきやすい年貢の割安な土地から売る。買うのは富商や豪農で、彼らに割安な土地が集まる。そして、年貢の割高な土地は貧しい百姓の手もとに残る。やがて潰れて水呑百姓となる。条件の悪い土地は売れず、年貢村請制によって負担は村内の本百姓に転嫁され、潰れの連鎖反応が始まる。
 村請制は、何事もなくスムーズに運用されている限り能率的で効果をあげるが、運用を誤ると歯車が狂い出す。ぎりぎりの生活を送る大多数の農民にとって、一度受けた打撃はなかなか回復せず長く尾を引く。農村の疲弊を招いたのは藩政の失敗である。定免制(じょうめんせい)(一二四ページ参照)にこだわって凶作の年にも苛酷な年貢を割り付けたこと、未進米に利子をかけたこと、年貢の割高・割安の土地の存在を無視した税制を取り続けたことなどがあげられる。
 困窮の事態は改善されないまま、土地を手放す農民が増え続ける一方で、土地を買い集めた富裕層はますます成長していった。階層分化が激しく村は変貌した。この傾向に拍車をかけたのが商品経済の浸透である。

土地売渡証文 加藤精一氏蔵