天明七年(一七八七)は、まれにみる全国的な大飢饉になった。五月には米価が高騰し、大坂・江戸で町人が蜂起した。吉田でも物価は著しく騰貴した。米一升が二五〇文になり、前年の二倍を越える高値となった。東海道筋では一膳飯が二四文から四八文に、旅籠代(はたごだい)は二五〇文から一三〇〇文までになった。藩主松平信明(のぶあきら)は救済に努めたため大きな騒動は起こらなかったが、寛政五年(一七九三)には、大木村(宝飯郡一宮町)惣十の家が打ちこわしにあっている。さらに、この時期は大災害も続き、文化五年(一八〇八)には暴風雨のため、同年の吉田藩の年貢収納は江戸時代最低を記録した。
天保の飢饉では三河地方も大飢饉に見舞われた。天保八年(一八三七)に入ると、二川・白須賀付近の道路で連日八、九人の餓死者があったといわれた。米価も高騰を続けた。町の米相場は、同三年は一〇両で米二三俵であったものが、同七年七月には一三俵、翌八年四月には六俵余りと四倍近く高騰した。
米価をはじめ諸物価が騰貴するなかで、天保七年、西三河を中心に加茂の大一揆が勃発した。加茂郡では一万数千の人々が各地で米屋や高利貸・酒屋を打ちこわした。
一揆の主体は、土地を持たず労働賃金に家計を依存する零細な下層農民であった。処罰者だけでも旗本領・藩領・寺社領・天領二三九か村で計一万人以上に達した。吉田領からも一七人が逮捕されている。一揆を記録した渡辺政香の「鴨の騒立(かものさわぎだち)」によると、一揆は口々に「世直し神々来て現罰を当て給ふ観念せよ」と叫んで進んだという。このように、一揆が藩の領域を越え広範囲にわたるようになったことは、商品経済や貨幣経済の発展がすでに藩の枠組みを越えるまでになっていたことを示している。また、世直しのスローガンにみられるように、人々が幕藩体制の変革を要求するところまで不満が高まっていた。
また、幕末の慶応三年(一八六七)には、吉田宿と助郷村との間に助郷騒動が起こっている。吉田宿から遠い村では、助郷を勤めるかわりにそれに見合う金額を支払っていた。その金を吉田宿の助郷惣代や助郷取締などの幹部が横領したとして、宝飯郡小坂井村・篠束(しのづか)村・瓜郷(うりごう)村・下五井村など吉田宿助郷四〇余か村の農民二〇〇〇人が、彼らの家・土蔵などを打ち砕き、貯蔵していた米を溝に投げ込むなどの乱暴を働いた。さらに吉田宿問屋、人馬指などの役人の家も襲撃した。
この事実も、困窮した農民たちのやり場のない不満が爆発したものだと考えられている。
天保の飢饉 「凶荒図録」より 豊橋市美術博物館蔵
きゝんのこゝろえ
天保の飢饉では、東北ほどではないが三河地方も悲惨な状態であった。この時、吉田藩士中山美石(うまし)は「饑饉(ききん)の時の食物の大略」を著し、吉田周辺に頒布した。これは一般に「きゝんのこゝろえ」とよばれている。その一部を紹介すると
「米穀を食い延ばす術は、粥(かゆ)と雑炊(ぞうすい)に勝ることはなし。(中略)ある仁者の近頃の印施(いんせ)に格別なる法あり。それは、米かし水一斗、白米五合、麦二合五勺、野菜海草何にても毒なき物を細かく切って、およそ一斗五、六升よく煮えたる時、味噌七〇目、塩はよきほど入れこの分量四十人前一度の施なりとぞ」
これで四〇人前とは驚きである。また、
「とちの実、どんぐりの実この二品、水を替へて煮ること十四、五度するか、または皮をさりて一日一夜も流水につけおきて、団子とし(略)」など、ありとあらゆる木の実・海草・雑草などの食べ方をくわしく記述している。さらにわらを粉にして食べる法や土を粥にして食べる方法などまで紹介している。