窮乏する藩財政

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 江戸時代の中期以降、生産と流通はめざましく発展した。こうした商品経済の進展は必然的に消費支出の増加を招く。幕府・諸藩はそれにつりあう収入増加をはかろうとしても、前節で述べたような農村の疲弊により年貢徴収には限度があった。そのため、財政難はしだいに深刻化していった。土地を支配し、米中心の経済を基盤とする封建体制がゆらぎ始めたのである。
 財政立て直しをはかった幕政改革、諸藩の改革も根本的には改善されないなかで幕末に至る。そこでは黒船来航に始まる諸外国の開国要求や、長州・薩摩を中心とした倒幕の動きがからみ、ついに幕藩体制は大きく動揺した。
 吉田藩においても財政難は歴代の藩主を苦しめた。吉田藩に限った出費ではないが、藩政が始まって以来繰り返された参勤交代の費用、江戸屋敷の維持費は常に藩財政を圧迫し続けた。天災・飢饉などにより財政収支が大きく狂った年もあった。あい次ぐ転封が余分な出費を強いる場合もあった。しかし、十八世紀後半以後における悪化の根源は、村請制なり定免制なりの年貢負担による領内農漁村の疲弊が年貢収納額の低下を招いたことである。
 このような財政難に対して、吉田藩では富商からの御用金の調達、商工業者からの町方運上の徴税、倹約令による支出の削減、藩士の俸禄の減額などさまざまな打開策を打ち出してきたが、どれも十分な成果をあげることはできなかった。
 江戸時代末期になると、吉田藩の借財は膨大な額に達した。嘉永元年(一八四八)の借財は、吉田での借財一一万両を筆頭に総額約三〇万両にも及んだ。ちなみに、そのころの吉田藩の年貢収納高は、七万俵余りであったが、当時の米の値段は一〇両につき二三俵であり、この年貢収入を貨幣に換算すると約三万両である。借財総額の約三〇万両は、実に吉田藩の一〇年分の年貢収入に当たる。
吉田藩の借財 嘉永元年1848
          (分以下切捨)
内容金額(両)
吉田借財113,958
同臨時借入1,600
江戸借財65,123
大坂借財15,466
京都借財6,575
大津借財30,636
融通講34,890
積金預り元利4,899
積講24,780
合計297,928
「豊橋市史第二巻」より

 この年貢収入から藩士の俸禄など必要経費を除くと返済できる金額は約四九〇〇両にしかならない。この年の返済額約三万九〇〇〇両に対し、差引三万四〇〇〇両の不足である。もちろん、藩士の扶持米(ふちまい)は引米によって減額した結果である。同年の利息支払い分でさえ約一万六〇〇〇両になる始末で、藩財政は完全に破綻していた。
 嘉永元年、吉田藩は領内のご用達商人一同を城中の大書院に招き、藩主自ら新規の御用金八〇三六両の調達を依頼した。藩財政の苦境を訴えて、「何とも申し出しかたき儀に候へども、なおまた出金の儀、相頼み候より外に之なく」と懇願している。なお、この御用金のことについては、「当申暮(同年)より五ケ年之間、毎暮出金之儀何分頼入候」とあり、五年で返済すると約束している。また、翌日には吉田町中の年寄・庄屋・五人組頭などを招いて藩主自ら協力を要請し、さらに、次の日からは勝手掛の家老から領内のすべての庄屋・組頭などへ協力を要請するなど、藩当局の総力をあげて依頼している。
吉田町在御用達御用金拝借金一覧
町・在御用達御用金
累計
拝借金
累計
新規御用金町・在御用達御用金
累計
拝借金
累計
新規御用金
広岩主水1,200150250草ヶ部村 佐兵衛600150(400)
兼子甚兵衛5花屋 藤治36050
松坂幸太夫5,500550鈴木屋甚吉36050
ならや作兵衛5405040阿波屋 吉左衛門36050
嶋田惣十郎1,65040010いせ屋 善兵衛32040
嶋田十郎太夫1,850550100斉藤屋九郎兵衛36010060
福谷藤左衛門2,680180180大木屋 喜重36010050
松坂恭右衛門5,0001,000100小坂井村 権十56050
服部弥八(伊賀屋)1,65020200(350)八文字屋 彦八36050
高須久太夫25060060大木屋重右衛門33540
加藤六蔵4,400350綿屋 弥助3355030
植田耕三郎350大和屋 猪助36040
高須嘉兵衛1,550350鍋屋 源吉36050
下地村 又吉42010畑ヶ中 理兵衛36010050
藤井得助350807一ノ宮村 嘉助78530040
草ヶ部村 惣太郎3507新銭町 茂右衛門15025
篠束村 庄次郎1,40060行明村 権十4005030
山本新助2,600200塩屋弥右衛門36040
佐藤善六3,800250野川屋 喜十2351007
中野市十5,020200800萩平村 平四郎50040
中尾十右衛門2,470250鈴木屋 八十吉20010
下り町 与平1,4005010加藤源太郎1303015
嘉兵衛90080三渡野村 源治15010
藤蔵30平井村 十兵衛43040
油屋 重兵衛725150(275)篠束村 与三郎10010
同 彦十600100150(400)前芝村 吉蔵8010
麻屋重四郎32010060同村 富蔵・栄蔵250 15
九文字屋猪左衛門75050150(250)合計57,1354,3608,036
亀屋 小三郎600150(400)61,495両
注1.加藤六蔵・植田耕三郎・高須嘉兵衛は3名で計350両、また藤井得助・草ヶ部村惣太郎は両名で7両ともとれるような記載であるが、ひとまず分けておいた。
 2.新規御用金のうち()内は「文限ヨリ先達而御用達候金子員数少ニ付」としてあとで追加された分である。
 3.追加賦課された御用達のなかに伊賀屋弥八というのがいるが、服部弥八と同一人であるので、追加分をそこに入れた。
「豊橋市史第二巻」より

 この当時、吉田藩に貸金のある領内の商人は五〇人以上にのぼり五千両以上貸している者も三人いた。彼らに対するこれまでの借金の累計はすでに六万両余もあり、調達は失敗に終わった。

吉田藩借金証文 加藤精一氏蔵