苦しい武士の生活

176 ~ 177 / 383ページ
 吉田藩の財政窮乏の打開策のひとつとして、藩士の俸禄を減らす引米(ひきまい)がおこなわれた。この引米は明和六年(一七六九)三月の新規仰出に「御家中之儀……物成御引米少々御ゆるめ……」とあり、かなり以前から家中の俸禄の引米がおこなわれていた。
 文化八年(一八一一)の計算方法によると、知行取百石以上の者が対象になり、支給される俵数から一〇〇俵を控除した残りの半分が引米とされた。知行取五百石を例にすると、支給される俸禄は、五百石の四割で約二〇〇石、これは約五〇〇俵になり、引米がなければこれが支給総額になる。しかし、引米によってこの五〇〇俵から一〇〇俵を控除した半分の二〇〇俵が減額された。これは「古引(こびき)」とよばれ後々までおこなわれた。
 さらに、文政十年(一八二七)には、引米の対象も拡大され、知行取五十石以上では二二・五%、俵切米取の者で三五俵取以上の者で一〇~二〇%程度の追加引がおこなわれ、これは「新引(しんびき)」といわれた。古引では上士層が対象であったが、この新引では中・下士層も減額の対象とされた。
 天保十一年(一八四〇)の記録では、扶持の総額四万八七七七俵に対し、古引五一五二俵、新引四六四八俵で、約二〇%減額されている。また、藩主自ら新規の御用金の調達を依頼した嘉永元年(一八四八)から五か年にわたり、さらに二五%程度の「増引」がおこなわれた。
 城下町に結集させられた武士は、商品の購買者として早くから商品経済の渦中にまきこまれていた。文化十四年(一八一七)の松平信順(のぶより)の襲封(しゅうほう)直書に「近頃は家中自然と奢侈華美(しゃしかび)の風俗に流れゆき、只今にては困窮の者もこれある由」とあり、武士に対しても農民以上に厳重な倹約と風紀の取り締まりが再三にわたって触れ出された。
 また、武士は俸禄米の販売者としても商品経済に深くかかわっており、藩士の家計も米相場によって大きく左右されていた。しかし、引米によって俸禄が切り詰められるなかでは、「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」というわけにはいかず、風紀も乱れてきた。吉田藩の村役人のなかには「御用にて罷(まか)り出で候節、町方にて飲酒にふけり、中には札木町へ出で、遊楽致し候者これあり」などと叱責される者もいた。
 嘉永年間には俸禄をすべて扶持米の形態に統一し、閏(うるう)月の扶持は支給しないことが決定されたため、奏者番(そうじゃばん)以下の重職を先頭に家中の武士がいきり立って藩当局に詰め寄ったという。商品経済の進展とあいつぐ引米の実施により、藩当局に対する武士の不満も高まっていたのである。