引米によって窮乏した武士達は、あれこれの内職によって生計を補っていたようである。
藩当局も何とか藩士の窮乏を救うため、「文化三年二月頃より、御城主様(信明)美濃より紙漉(かみすき)御呼寄せ、紙をすく事、足軽に御覚えさせ」「同三月、瀬戸より茶碗焼御呼寄せ、牛川村山にて御焼成され候」などと殖産興業への意欲をみせている。
山本恕軒(じょけん)の父、定七は徒目付(かちめつけ)などを勤め山方代官格まで進んだ人であった。彼は、腕に覚えのある刀ごしらえや飾り職の内職で小金をため、金貸を営んで一代の間に五〇〇両の財産をつくった。恕軒も勤めのかたわら金貸業を引き継いで裕福な暮らしをしていたようである。恕軒父子の顧客のなかには吉田藩士がかなりいたと伝えられている。
その他、手習い師匠や細工物などの内職をする者、娘たちを女中奉公に出している足軽なども多数いたという。
また、藩士は領内の百姓との結婚は一切禁止されていたが、百姓との結婚を望む者が多くいた。藩の要職にある者と百石以上の知行取以外は、他領の百姓との結婚について娶ることは禁止であるが、嫁がせることは許された。そこで、富裕な百姓との持参金目当ての婚姻や養子縁組をする者までいた。
また、明治になって発展した豊橋の筆づくりも、武士の内職として始まったようである。幕末のころ、吉田藩鉄砲組の藩士芳賀(はが)次郎吉が内職として始めていたという。彼は、廃藩後、毛筆製造を専業にしようと東京に出て修業した。明治七年、彼のもとに佐野重作(じゅうさく)が弟子入りしている。