松平信古画像 大河内元冬氏蔵
嘉永六年六月のアメリカ合衆国東インド艦隊の浦賀への来航は、鎖国体制下の人々に大きな衝撃を与えた。吉田藩でも翌年、異国船退散を祈願するため領内村々の惣代を伊勢神宮に派遣したり、足軽・中間三〇〇人を徴集して江戸に派遣するなどあわただしい動きがみられた。
安政五年(一八五八)、幕府は通商条約を結び、神奈川・長崎・箱館などを開港した。開国後の井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄などの政治的混乱や、外国貿易による経済的混乱のなかで、吉田藩は田原藩との境、百々(どうどう)村中郷(渥美郡田原町)に防塁を築いて大砲をすえ、外国船の襲来に備えた。
安政六年、松平信古は寺社奉行に任ぜられ、次いで文久二年(一八六二)には大坂城代になり、動乱期の幕政の一翼をになったのである。同年九月の着任以後二年半の間、西国総指揮の任にある信古は、攘夷(じょうい)を主張する朝廷と幕藩体制を何とか維持しようとする幕府のはざまにあって、悩み多い日々を大坂で過ごした。元治元年(一八六四)の蛤御門(はまぐりごもん)の変、第一次長州征伐の時、吉田藩ではこれまで武士以外に禁止していた鉄砲や剣術の稽古を一般の人々にも奨励している。
翌元治(げんじ)二年(慶応元年)、信古は大坂城代を免じられ、江戸で溜間詰(たまりのまづめ)格の命を受けた。溜間詰は、幕閣の顧問にあたる重要な役であり、ふつう老中職の経験者がなるものであった。老中の経験のない信古が任ぜられたことは破格の登用であった。
慶応二年(一八六六)、薩長同盟が結ばれ、第二次長州征伐では幕府軍は連戦連敗した。同三年、幕府では一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)が将軍職を継ぎ、朝廷でも明治天皇が即位した。同三年十月、幕府はついに大政奉還を決めて政権を返上し、十二月、朝廷側も王政復古を宣言した。
慶応四年(一八六八)一月、戊辰(ぼしん)戦争のはじまりとなった鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗退し、徳川慶喜は軍艦開陽丸で大坂から江戸に逃げ帰った。
そのころ、信古(のぶひさ)は江戸から軍艦翔鶴丸(しょうかくまる)で海路大坂に向かっていた。大坂に着いた時、慶喜はすでに江戸に逃げ去った後であった。信古は藩の重臣を集めて吉田藩の方針を協議したが、勤王と佐幕に分かれ藩論を統一することはできなかった。一月十二日、信古は吉田に戻り、翌日城中の大評議で協議したが結論は得られず、事態の成り行きを見ることになった。十月十七日、大津まで重役を一人よこせとの東征軍からの命令書が届いた。吉田藩では、その日のうちに宮脇忠右衛門(ちゅうえもん)を急行させた。さらに、四日市へ出兵するよう要請を受け、吉田隊五二人は一月二十六日に到着の届けを済ませて任務についた。
吉田藩は勤王か佐幕かの二者択一を迫られていた。二月十日、尾張藩の御用達であった鳴海宿の竹田庄次郎が吉田を訪問した。この時期、尾張藩では藩論を勤王に統一し、三河諸藩にも勤王を呼びかけていた。尾張藩と接触したことは、吉田藩も勤王方に味方する意向が伝えられたからであろう。
二月十二日、東征軍から兵糧(ひょうろう)の手配、その輸送の命令が伝達された。吉田藩からは先鋒隊四二人、本隊五五人が従軍した。
兵糧調達 「御先鋒之分」より 大河内元冬氏蔵
吉田藩は、さらに駿河方面の敵情偵察、新居関所の破却を命ぜられている。しかし、新居関の破却については、二月二十一日幕府に対して伺書(うかがいしょ)を提出している。譜代大名として幕府に対する義理も欠きたくないとする吉田藩の苦悩がうかがえる。
二月二十六日には東征軍大総督有栖川宮(ありすがわのみや)が吉田に逗留した。このように、はっきりした態度を決定できない間にも東征軍は進軍を続けていた。
これまで、京都の朝廷からたびたび召し状を受けながら理由をつけて断っていた信古は、幕軍の敗退が決定的になるに及んで、やっと三月十一日吉田を出発し、三月二十日、明治天皇に拝謁した。続いて四月十一日、幕府は江戸城を開城し、倒幕軍は江戸に入った。ここに、徳川幕府の敗北が決定したのである。
一方、吉田藩の谷中(東京都台東区)の江戸藩邸から脱走し、慶応四年五月の彰義隊(しょうぎたい)の上野の戦いに加わったり、続く会津若松の戦いや箱館五稜郭(ごりょうかく)の戦いにまで参加し、あくまでも佐幕をつらぬく吉田藩士もいた。吉田で初めて英学塾を開いた穂積清軒(ほづみせいけん)もその一人である。清軒はひそかに脱藩して彰義隊に参加した。この谷中事件に関連して、清軒は藩から隠居のうえ蟄居を命じられた。
反対に、勤王派に属した吉田藩士もいた。羽田野敬雄に学び、その影響を強く受けていた亀井孫六(かめいまごろく)(改名後、山本一郎)は、蛤(はまぐり)御門の変のころ脱藩し勤王派として活躍した。後に出世して三河裁判所の権判事(ごんはんじ)、若松県大参事などになった。
ええじゃないか
慶応三年(一八六七)の七月から翌年の春にかけて、「ええじゃないか」と呼ばれる民衆運動が広がった。七月十四日、吉田領内の牟呂村に伊勢外宮の御祓が一軒の屋敷の竹垣ぎわに降っているのが発見された。発見者の子どもがその夜急死し、その御祓に疑問を抱いた村民の妻も精神異常になり、翌日死亡するという騒ぎになったので村人はそれを神罰と考え、盛大な臨時祭礼を催した。このお札降りは、さらに周辺の村々にも拡大し全国へ広がっていった。
お札が降った家では、それを吉兆として喜び、酒や食事をふるまった。また、何をやってもええじゃないかと商家や土地の有力者に酒食を強要することもあった。幕末の不穏な空気のなかで、民衆のエネルギーが爆発したものだとも考えられ、また、世直しへの願望を宗教的形態で表現したものともいえる。
お札降り「伊勢参宮大井川之図」新居関所史料館蔵