版籍奉還と豊橋藩の成立

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 慶応四年(一八六八)三月には五箇条の御誓文が出され、七月には江戸が東京に、続いて九月には元号が明治に改められた。新政府は版籍奉還や廃藩置県を進め、封建制度を廃止していった。府県の統廃合も矢つぎ早におこなわれた。
 慶応四年四月、吉田に三河裁判所が設置され、悟真寺が仮事務所となった。この三河裁判所は、三河のほかに遠江(とおとうみ)・駿河(するが)の旧幕府領・社寺領を管轄した。同年六月、三河裁判所は廃止され、かわって三河県が宝飯郡赤坂に設置された。
 続く明治二年(一八六九)六月二十四日に三河県は廃止され、伊那県に合併された。伊那県は、明治元年八月二日に信濃国(長野県)におかれた県である。伊那県は加茂郡に支庁を設けて足助庁とし、三河県に関する事務を処理させていたが、同四年十一月二十日、伊那県も廃止となった。
 三河国に属する足助庁は、新設の額田県に引き継がれた。額田県は三河全域の旧藩と尾張国知多郡をあわせて設けられた。
 藩領については姫路藩が版籍奉還を申請したことをきっかけに、明治二年(一八六九)二月二十三日、吉田藩も藩主大河内信古(のぶひさ)(松平姓から大河内姓に復姓)が版籍奉還を願い出た。
 明治二年六月十七日、全国いっせいに版籍奉還がおこなわれ、豊橋藩知事として旧藩主の信古が任命された。つまり、明治政府の地方行政はしばらくの間、旧体制をそのまま利用したのである。
 明治四年(一八七一)七月十四日、廃藩置県が断行され、豊橋藩は豊橋県となったが、続いて、同四年十一月額田県の一部となった。

豊橋藩知事任命書 大河内元冬氏蔵

 
吉田から豊橋への改称
 明治二年六月十九日、信古は藩知事に任命された。この辞令には吉田藩知事ではなく、豊橋藩知事とあり、明治新政府のもとで吉田は豊橋と改称していることがわかる。吉田の藩名は伊予にもある。それでは、なぜ吉田は、豊橋に改称させられたのだろうか。
 藩日記によれば、同年五月二十日に突然、新政府の弁事伝達所から「今まで吉田城と呼んでいたのを今回改称するから、古い呼び方を取り調べて適当と思われるものを二つ三つ申し出よ」との命令を受けた。そこで、数日後「豊橋、関屋、今橋」の三つの試案を申し出た。「府藩県制史」によれば、同藩名が多いので煩雑だから改称させたとあるが、本当の理由ではなさそうである。吉田藩が譜代大名であったことや朝廷の東征軍に対して優柔不断・消極的であったことが影響したのであろう。
 いずれにしろ、長年なじんできた吉田の名称は、新時代に向け公式にはすべて消え去った。