この額田(ぬかた)県は、豊橋県や岡崎県をはじめとする三河地方の一〇県を合併し、その管轄は三河国全域と知多郡にまで及んでいる。額田県の県庁は旧岡崎城内に設置され、初代権県令には林厚徳(あつのり)、権参事(ごんさんじ)には木村成章(なりあき)が任命された。
一方、尾張地方は明治四年七月に名古屋県と犬山県の二つが誕生したが、その後、この二つの県が合併して愛知県と改称された。権県令は名古屋県権令(ごんれい)の井関盛艮(いぜもりとめ)が引き続き就任した。
明治五年十一月、わずか一年余で額田県は愛知県に合併されることになり、ここにほぼ現在の愛知県が成立した。権令は引き続いて井関盛艮であった。翌年の一月には、額田県から愛知県への事務引き継ぎもほぼ完了した。
愛知県はまず行政機構の整備に着手し、管内を一五の大区に分けた。豊橋地方は、宝飯郡が第十二大区に八名郡が第十四大区に、渥美郡が第十五大区にとそれぞれ行政区画された。この大区の下には県内で一五四の小区がおかれた。
愛知県の成立
大区には区長および権区長が置かれ、小区には正副戸長、町村には副戸長助(介)・組頭が置かれて行政の徹底がはかられた。その後、八か月で名称の変更があり、さらに明治七年(一八四七)七月になって、大区に正副大区長、小区に戸長、町村に副戸長・伍長と再修正されて一応は落ち着いた。
愛知県第十五大区の渥美郡では役所に相当する会所が関屋町に設けられた。また、愛知県の出張所である豊橋支庁が豊橋札木町の旧本陣跡に設けられ、渥美・宝飯・八名・設楽の四郡を管轄した。豊橋支庁では各区の副区長一人ずつが交代で事務にあたった。
大区の長である区長の役目は主に戸籍と地券の業務であり、小区の戸長は徴税と戸籍・地券事務に携わった。副戸長は戸長のもとにあって町村内の行政事務にあたり、組頭(五伍長・伍長)は江戸時代の五人組制度を受け継いだものであった。
額田県を統合して愛知県が成立した当初、大区長は額田県当時在任していた各町村戸長の投票により選任されたがその後は官選となり、町村の副戸長のみ住民の投票で選出された。身分は両者とも官吏ではなく一般のままとされたが、刑法上では官吏に準じる特別措置が採用された。
副戸長辞令 明治7年 1874 加藤精一氏蔵
明治九年(一八七六)八月、愛知県は仕事の簡素化と人件費の削減のために、今までの大小区制を廃止した。かわって新しく一八区に分け、各区ごとに区会所を設けるなど行政の整備に努めた。この改正により渥美郡は新しく第十七区に位置づけられた。次いで、十一年七月に、郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる三新法が公布されると、愛知県は従来の区を廃止し新しく郡区の名称および役所の位置を定めた。名古屋は区になり、尾張部は八郡、三河部は碧海(へきかい)・幡豆(はず)・額田(ぬかた)・西加茂・東加茂・北設楽(したら)・南設楽・宝飯(ほい)・渥美(あつみ)・八名(やな)の一〇郡がおかれ、区には区長、郡には郡長がおかれた。
三河明細図 明治9年 1876 豊橋市美術博物館蔵
続いて、明治十八年(一九八五)に太政官制に替わって内閣制度が発足し、二十二年十月には市制・町村制が施行され、国会開設を控えて地方自治の制度はしだいに整備されていった。
額田県当時に始められた大小区制の整備は、新政府が早急に国民を掌握し、戸籍を作成するために実施されたものであった。明治五年(一八七二)一月十三日、太政官は、月末現在の人員を根拠にして二月一日から約一〇〇日間で戸籍を編制するように指示した。これを受けて額田県は、「額田県大小区戸長職掌(しょくしょう)規則」を定め、そのなかに戸籍事務の取り扱いに関する規定を明記した。豊橋地方では同年五月ごろにほぼ完成している。
この時につくられた戸籍は壬申(じんしん)戸籍と呼ばれた。吉田藩および豊橋県時代に編制された戸籍の集大成であり、近代戸籍制度の基礎をなすものであった。この戸籍の作成により安定した財政収入確保を目的とする地租改正が円滑に進んだのである。
渥美郡の成立
愛知県は三新法に基づく地方制度の改革に乗り出し豊橋を含む旧第十七区が渥美郡となった。郡役所は豊橋に設置され、明治十一年十二月二十九日開庁した。
はじめ郡役所は大手通りに設けられたが、十九年五月に西八町(八町通二丁目)へ新築移転し、大正十二年(一九二三)の郡制廃止までこの地にあった。
初代郡長には旧豊橋藩士で、前年第八国立銀行を創立するなど先進的な経済人として知られた中村道太が就任した。
しかし、彼は在職数か月で辞任したため、後任として同じく旧豊橋藩士で八名郡長から松井譲が転任してきた。彼は明治三十三年九月まで、二〇年の長きにわたって在任した。
渥美郡役所