藩は解体されても一〇〇〇人を越す旧豊橋藩の武士階級は残されており、もちろん家禄(かろく)も支給されていた。幕藩時代に比べれば大幅に削減されているが、それでも明治四年における家禄は、旧藩主二六二〇石、士族七五四〇石、卒(足軽など)二八五〇石と、計一万三〇一〇石に及んでいた。
これらの華士族の家禄は明治政府に引き継がれた。明治五年の資料によれば、地租収入の八〇%が家禄の支給につかわれており、国家財政の大きな負担になっていた。そこで、政府はロンドンで外債二四〇万ポンドを募り、これを資金として明治六年十二月二十七日の布告で秩禄(ちつろく)奉還の制度を定め、希望者に秩禄を奉還させた。その内容は、同年の各県の石代相場(こくだいそうば)で永世禄には六年分、終身禄には四年分の金額を半額現金、半額は八%利子の公債で支給するというものであった。公債は三か年据え置き、後の七年間に抽選で償還する規定であった。
家禄元帳 明治8年 1875 愛知県文書館蔵
豊橋藩における秩禄奉還例 |
年次 | 氏名 | 永世禄 | 返還分 | 六年分 | 金額 | 証券 | 現金 |
明治七年分 | 田中 一里 | 40石 | 40石 | 240石 | 円 1,159.92 | 円 | 円 |
松尾市太郎 | 28 | 28 | 168 | 811.944 | |||
西尾元次郎 | 15.2 | 15.2 | 91.2 | 440.77 | 225 | 215.77 | |
高城 権八 | 8.88 | 8.88 | 53.28 | 257.502 | 125 | 132.502 | |
金子 鼎 | 17.2 | 7.2 | |||||
斎藤 鐺太 | 14.4 | 7.0 | 42 | 202.986 | 100 | 102.986 | |
中村右喜人 | 6.8 | 6.8 | |||||
足立 啓一 | 6.0 | 6.0 | 36 | 173.988 | 75 | 98.988 | |
他4名 | |||||||
明治八年分 | 林 茂太 | 6.0 | 6.0 | 36 | 270.57 | 125 | 145.574 |
夏目紀三郎 | 6.0 | 6.0 | 36 | 270.57 | 125 | 145.574 | |
藤倉 隼太 | 8.88 | 2.0 | 12 | 90.191 | 25 | 65.191 |
「豊橋市史第三巻」より |
この秩禄奉還制度に対し、多くの希望者が集まった。そのため家禄の約二〇%ほど整理することができたが、政府は資金不足に陥(おちい)り八月にはこの制度を廃止した。
秩禄奉還制度に代わって、政府は金禄(きんろく)公債証書発行条令を制定して、家禄のいっせい整理に踏みきった。その結果、従来の武士階級はすべて金禄公債の所有者となり、利子生活者となったため旧下級武士の生活は苦しかった。
このころの豊橋藩をみると、藩主の公債額は、当時の米相場を一石当たり五円二〇銭四厘として、計算上は八万八六二四円であった。年収は五%の利息計算で四四三一円である。一方、藩士たちは旧藩時代に比べれば大幅に家禄を減額されていた。したがって、家老級で公債額二一三四円、六%の利息で年収は一二八円となる。旧藩五十石の中士層はさらに低く、公債額一〇二〇円前後、七%の利息で年収は七一円程度にしかならなかった。藩主級は県令の年俸二四〇〇円を上回るが、中級藩士は巡査の年俸ほどにしかならなかった。当然、下級士族の俸給はさらに低く、彼らの生活の困窮に拍車をかけたのである。
このため、士族救済を目的とした士族授産(しぞくじゅさん)が社会的な問題となってきた。豊橋藩の士族授産については、明治十一年(一八七八)関屋町に開業した製糸工場や毛筆業などがあったが、これらのほか、士族の手による開拓もおこなわれている。その非常に早い例として三ノ輪村があげられる。「三ノ輪村誌」によれば、八年には原野三町一反余であったものが、十一年には田四町六反余、畑一二町余と広がっている。また、九年の戸数は、士族四六戸、平民六戸であり、士族の集団帰農(きのう)の好例といえよう。