徴兵制と西南戦争

189 ~ 190 / 383ページ
 明治六年(一八七三)一月、政府は士族による軍事力を廃止して、国民皆兵制度をおこなうために徴兵令を公布した。
 これは二〇歳になった男子には兵役を義務づけたものであり、富国強兵政策の基盤となるものであった。しかし、この徴兵令は国民皆兵主義をうたいながら重大な例外条項を多く含んでいた。たとえば、家族制度を尊重し家系の存続に配慮したため、一家の主人や後継者などの兵役を免除した。また、代人料二七〇円以上納めた者も免役(めんえき)の対象とした。この額は兵隊ひとりの一年分の経費九〇円の三年分にあたった。この条項による免役者は一部の富豪の子弟に限られてしまい、国民皆兵とはいいながら、兵役の例外免除によって、兵役につくものは貧しい農家の二、三男が多かったのである。
 愛知県で徴兵検査が実施されたのは、明治七年二月であり、区長・戸長から提出された名簿をもとにおこなわれた。県内の九年の徴兵検査の会場をみると、悟真寺(ごしんじ)が豊橋検査場として登録されている。ここでは徴兵使として徴兵副使や軍医などが検査に立ち会い、検査に合格したものは、服役割符(ふくえきわりふ)が渡されて第三軍管名古屋鎮台(ちんだい)へ入営したのである。名古屋鎮台の常備兵員は四二六〇人であり、明治七年の第一回徴兵検査により管内の県から新兵として徴集したものは一四二〇人であった。このうち、愛知県で徴集されたものは表のようである。
愛知県の壮丁総員及び徴兵人員
年次壮丁総員現役補充
明治7年763763763
8年284386
9年1,572
11年377552
12年30378
13年316131
14年11,304508274
15年9,410600191
16年11,3598921,002
17年11,2974651,831
18年13,6081,0295,699
19年15,3665436,433
20年10,5985061,661
21年14,9426842,982
22年11,7166421,953
「愛知県史第三巻」より

 この徴兵制度の真価が問われる出来事が起こった。明治一〇年(一八七七)の西南戦争である。西郷隆盛(たかもり)を中心とする士族の反乱であった。この時、政府軍は六万人を越える兵隊を投入し、大砲や小銃などの豊富な武器を使って勝利へと導いた。士族という戦争のプロにできたてのアマチュアが挑んで勝ったことの価値は大きく、徴兵制度は認められ、その後の改正を経てさらに強固な組織へと発展することになる。
 この西戦争において、愛知県では三八人が軍労金を受け取っているが、豊橋地方の従軍状況については明かではない。しかし、十一年二月に八町小学校において渥美郡招魂祭(しょうこんさい)が営まれている。弔慰(ちょうい)された戦死者は六人であり、そのうち豊橋地方出身者は三人であった。また、東田町の陸軍墓地には、西南戦争で戦傷病没した将兵の青銅板製の合同墓碑(ぼひ)が二基建立され、同墓地の始まりとなっている。遠く鹿児島の地へおもむき、西南戦争の犠牲者となった人々がこの豊橋地方にもいたことがわかる。
 また、負傷者への恩給支給について愛知県あての政府通達がある。政府としては膨大な戦費のやりくりに苦慮していた最中であったので、恩給支給について府県に一時立て替えを求めたのである。