自由民権運動と村松愛蔵

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 明治七年(一八七四)一月、征韓論(せいかんろん)に敗れて政府を去った板垣退助は、後藤象二郎らとともに民撰議院設立建白書(けんぱくしょ)を政府に提出した。これは薩摩藩・長州藩を中心とした藩閥(はんばつ)政治を批判し、西洋にならった議会政治を実現しようという主張であった。同年四月、彼は郷里の土佐に帰って立志社をおこし、士族の不満を背景に政府批判の運動を進めた。自由民権運動の始まりである。
 運動は急速に広がり、明治八年には全国的な組織を持つ愛国社が結成された。地方の豪農や商工業者の支持を集めた愛国社は、十三年、国会期成同盟と改称し二府二二県、八万七〇〇〇人の署名を集めて国会開設請願書を政府に提出した。
 このころ、旧田原藩士の村松愛蔵(あいぞう)は、日増しに高まる民権運動に深く共感し、同志をつのって田原に恒心社(こうしんしゃ)を設立した。それからの彼の活動はめざましく、豊橋の民権運動にも大きな影響を与えるなど、東三河における民権運動の草分け的存在となった。また、彼は西三河の代表的自由民権家である内藤魯一(ろいち)らと協力し、活動範囲をさらに広げながら自由民権思想の高揚に努めた。

村松愛蔵

 国会開設が国民的世論となり、政府に対する批判が強まっていくさなかの明治十三年十一月、国会期成同盟は第二回大会を開催した。村松愛蔵は恒心社に結集する渥美郡の代表として参加するため、内藤魯一とともに上京しようとした。
 しかし、愛蔵は浜松付近で発病し、やむを得ず田原にもどったため、国会期成同盟の大会には出席できなかった。この上京騒ぎをきっかけに、自由民権家としての彼の名は、西三河の内藤魯一に対し東三河の村松愛蔵として広まった。その後も、彼は活動範囲を東三河だけでなく、名古屋や信州飯田地方にまで広げていった。