豊橋自由党の結成と飯田事件

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 豊橋における自由民権運動の始まりは、明治十四年(一八八一)二月、内藤魯一(ろいち)を招いて開かれた政談演説会であった。演説会は連続三晩に及び、内藤魯一をはじめ、村松愛蔵(あいぞう)、地元豊橋の遊佐発(ゆさひらく)、加藤平吉がそれぞれ壇上に立って政府の施策を批判し、自由民権を論じた。

遊佐発

 演説会の終了後おこなわれた懇親会の席で、内藤魯一は「各地人民団結の景況」と題して国会期成同盟に結集する全国の動向を報告し、自由党結成と県内各地の民権家の団結を強く訴えた。これを受けて会は「自由党団結ノ主義」を採択するとともに、次会を三月中旬に開いて同盟書ならびに規約を制定することを決めて散会した。この政談演説会をきっかけに豊橋の民権家たちがグループを結成したと思われるが、「同盟書」「規約書」など具体的な資料がなく確かなことはわかっていない。この年に結成されたという豊橋自由党とのかかわりも明らかではない。
 なお、この政談演説会における豊橋側の中心人物の一人である遊佐発は、村松愛蔵の遠縁にあたり、各地の演説会で壇上に立つことが多かった。明治十五年ごろには名古屋に出て、愛知新聞・愛岐(あいざ)日報・経世社(けいせいしゃ)共催による定例政談会の常連弁士として活躍した。その後、村松の設立した公道館で彼の手助けをするとともに、尾張地方の民権家だちと交流を深めていった。
 遊佐発たちが尾張・三河の勢力を結集して次の段階に進もうと活発に運動を始めたころ、中央では北海道開拓使官有物払下げにかかわる問題が外部に洩れ、政府は対策に追われていた。北海道開拓のために巨額の国費を投じた施設を、開拓使長官の黒田清隆(きよたか)が同郷の薩摩藩出身の商人に数十分の一の安値で払下げようとした件である。
 この払下げに対して政府非難の世論が高まり、民権派にとって絶好の政府攻撃材料となった。この事件はまた、政府部内での伊藤博文(ひろぶみ)と大隈重信(おおくましげのぶ)の対立を表面化させた。政府は危機を乗り切るため、払下げ認可を撤回するとともに、詔勅(しょうちょく)により一〇年後の明治二十三年(一八九〇)には国会開設を約束した。同時に、大隈重信を追放し、政府部内の反対派を一掃した。これを「明治十四年の政変」という。
 こうした動きをうけて、国会期成同盟大会は自由党の結成大会に切り換えられ、明治十四年十月、板垣退助を総裁としてわが国最初の政党を結成した。これにより、地方ごとに発足した従来の政治結社は自由党地方部を組織することになった。
 愛知県の場合は、愛知自由党と愛国交親社(こうしんしゃ)との対立が年々激しさを増していたため、県単位で地方部を結成することができなかった。しかも、愛知自由党は結成当初から尾張と三河に分かれて、それぞれ仮の本部を名古屋と岡崎に置くなどその結束はゆるかった。地方部の結成にあたり、尾張部がいち早く明治十四年十二月に名古屋地方部を結成したのに対し、三河は出遅れた。本部を置くのに岡崎か知立かで対立し、結局、知立グループは知立地方部を、岡崎・西尾グループは三陽(さんよう)自由党を、田原グループは田原地方部を結成するという具合に三河部を一つにまとめられなかった。
 このように三河の自由民権運動が分裂している時、板垣退助が東海道遊説(ゆうぜい)の途につき豊橋へやってきた。自由党の総裁が訪れるということは格別の刺激になったようである。これを機会に、豊橋グループは豊橋自由党を改め、東海自由党を組織した。

愛知県下の主な民権政社の変遷

 板垣退助の一行が到着したのは明治十五年三月である。その日は遊佐発をはじめ、村松愛蔵や内藤魯一などの出迎えの姿も見られた。懇親会は遊佐発や村雨案山子(むらさめかかし)などが発起人となり、関屋の百花園(ひゃっかえん)で開かれた。街の主だった辻々には、板垣退助一行の来豊と懇親会の開催を知らせる張り札(はりふだ)が掲げられていた。前年の政変以来、国会や民権に関心を抱き始めたころであったことと、板垣退助の持つ前参議の肩書きも手伝って、道行く人々の注目を集めたという。
 その後、板垣退助が岐阜で暴漢に襲われる事件もあったが、これはかえって自由民権の支持を集める結果となり、自由党の勢いはさらに伸びていった。また、明治十四年の政変で政府を離れた大隈重信は、十五年三月に立憲改進党を結成し、自由党より穏健(おんけん)な政策を掲げて活動を始めた。反政府勢力が増大していくことに不安を抱いた政府は、同年六月、集会条例を改正して民権運動の弾圧強化に乗り出した。とくに、政党の支社設置が禁止されたため、県内の自由党地方部などとともに、結成してから間もない東海自由党は解散に追い込まれた。しばらくして、岡崎の三陽自由党を中心に全参(ぜんさん)自由党として再結集するが、活動の実態は不明の点が多い。
 政府の弾圧強化は、一方で自由党急進派の運動激化を招いた。当時、財政政策の引締めで養蚕地帯を中心に各地の農民の暮らしはどん底にあった。急進派の活動はこうした貧しい農民たちをまき込み、明治十七年(一八八四)に入ると加波山(かばさん)事件、秩父(ちちぶ)事件をはじめとする諸事件が各地で発生した。
 飯田事件も、こうした政府の弾圧と農民の生活苦とのはざまで起きた自由党員による事件の一つである。
 明治十七年四月ごろ、村松愛蔵は田原の同志や長野県飯田の同志とはかって、政府の圧政を訴えるビラを東京・大阪などでまき散らす計画を立てた。これに呼応して名古屋鎮台でも同志が挙兵し、政府転覆(てんぷく)の軍隊を東京に進めようという過激なものであった。しかし、仲間の密告により警察に知られ、村松らは逮捕されて計画は未遂のままに終わった。
 村松愛蔵はじめ、事件の中心人物が田原の出身者であったため、警察の捜索は豊橋にも及んだ。豊橋出身者で検挙されたのは、遊佐発、村雨案山子、名古屋鎮台看護卒(かんごそつ)の中島助四郎(すけしろう)であった。このうち、実刑判決を受けたのは中島助四郎だけであり、他の二人は事件には直接のかかわりがなく、証拠不十分として釈放された。
 中島が磯辺村の父母にあてた手紙の中には「国事(こくじ)ニ尽力セントスルハ身体ノ自由ヲ得サルヘカラズ、依(よっ)テ病院ヲ脱ス、我ガ生命ハ将来如何(いか)成リ行クヤモ図ラサルニ付キ承知アリタシ」という遺書めいたものがあった。彼は長野重罪裁判所に送致され、一年六か月の有罪処分を科せられた。
 この飯田事件が豊橋の自由民権家たちに与えた衝撃は大きかった。彼らの行動を心情的には理解できても、党勢拡張をはかる村松愛蔵のあせりが生んだ行動として批判的に受けとめる者が多かったようである。
 飯田事件を含め、これら一連の自由党激化事件は、地方の豪農や商工業者の支持を失わせた。政府の強圧策が効果をあげるとともに、自由民権運動は急速におとろえていった。諸事件の進行するなかで、明治十七年十月、ついに自由党は解党にまで追い込まれた。
 
板垣退助血染めのシャツ
 明治十五年(一八八二)四月六日、岐阜の金華山麓神道中教院で開かれた懇親会で演説を終えた板垣退助は、旅館に戻ろうと玄関を出たところを一人の暴漢に襲撃されて負傷した。「板垣死すとも自由は死せず」と宣伝された有名な事件である。

板垣君遭難之図

 この時、急を聞いてかけつけた民権家の一人に村雨案山子がいた。彼は板垣退助が寝込む隣室に座り、二昼夜にわたって警護を続けた。後日、傷の治った退助が血に染まったシャツを与えようとした時、村雨案山子と内藤魯一が争った。魯一は事件当時、暴漢を投げ飛ばし板垣退助の危急を救ったことでその殊勲者を自認していたからである。
 二人は血染めのシャツをかけて相撲をとり、結局、村雨案山子が勝ってシャツを獲得したが、当時の民権家の血気さかんな一面がうかがえる。