豊橋町の成立

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 市制・町村制は、国会開設が間近に迫った明治二十一年(一八八八)四月に公布され、その翌年の四月から内務大臣の指定する地方から順次施行された。近代国家としての体裁を整えるうえからも地方制度の整備は重要であったが、政府のねらいはもう一つ別のところにもあった。当時、旧政党は勢力の回復をめざし、民権運動の行き過ぎを反省するとともに、過去のいきさつを水に流して一つにまとまろうという大同(だいどう)団結運動を進めていた。政府はこれに対抗するため、地方の有力者を地方の自治機関に引き入れて運動の広がりを食い止める必要があった。
 こうした背景のなかで町村制は出発したのである。そのため、制度の内容は国家の意志を優先する制約の多いものであった。つまり、一応は最高の議決機関として市町村議会を設けたほか、市町村長は間接的ながら公選制とし、住民にも制限付きにせよ参政権を与えたが、国の監督・統制権が強く、十分な地方自治にはほど遠いものであった。
 愛知県は明治二十二年(一八八九)十月、市制・町村制を施行した。これにより豊橋町政は、旧吉田宿を構成していた二三か町で発足した。とりあえず、町役場を八町に設け、後に札木の旧本陣跡に移した。町長事務取扱には、呉服町他五か町の戸長であった久野寛一郎(くのかんいちろう)が任命された。
 町政の最初の仕事は町会議員の選挙であった。町会議員の選挙権は、満二五歳以上の男子で二年以上町に居住し、地租もしくは直接国税二円以上を納める者(公民)に与えられた。選挙の方法は、選挙人を納税額に従って一級選挙人と二級選挙人とに分け、級別にそれぞれ議員定数の半分ずつを選ぶというものであった。議員定数は、町村の人口によって定められ、任期は六年、三年ごとに半数ずつが改選された。
 この頃の豊橋町の総人口は、一万二三三九人であったので、議員定数は二四人と決められた。したがって、一級議員が一二人、二級議員が一二人の枠ができた。一方、豊橋町の選挙人の数は、一級選挙人が一九三人、二級選挙人は五二六人であった。
 選挙は、まず二級議員からおこなわれ、明治二十二年十月二十五日に、選挙掛長の久野寛一郎らが見守るなか町役場でおこなわれた。初めての町会議員選挙であった。その翌日には一級議員の選挙がおこなわれたが、係も選挙人も初めてのことであり、かなり混乱して無効票も多かったと伝えられている。
 この第一回豊橋町会議員選挙の結果は次の表の通りであり、万久(まんきゅう)たばこの原田万久や民権活動家の遊佐発(ゆさひらく)ら豊橋の著名人が多く当選している。
第1回豊橋町会議員当選者及び得票数
1級2級
氏名得票数氏名得票数
佐藤 弥吉90富田 良穂213
原田 万久67久野寛一郎187
佐藤市十郎66西岡 松枝178
伊東 耕一66伊東 米作156
田中佐次郎63杉田権次郎147
土屋 庄七63遊佐  発136
大山復次郎63伊藤 貞吉115
福谷 元次59鈴木吉兵衛111
石川  汀57永野 武三104
鈴木 源吉51富田佐一郎103
中村卯兵衛50曽田 良吉99
高橋小十郎49西山 左内96
「豊橋市史第三巻」より

 町会議員選挙のあとに待っていたのは、議員たちによる町長の選出である。これは中央における大同団結運動の分裂の影響を受け、激しい政争の渦へ巻き込まれていった。三浦碧水(へきすい)を推す一派と魚町の佐藤善六(ぜんろく)を推す一派とが対立して互いに譲らなかった。
 結局、三浦碧水が当選し、明治二十二年十一月二十五日初代豊橋町長に就任した。助役には鈴木源吉(げんきち)、収入役には白井直次がそれぞれ就任して町の三役が出揃い、豊橋町政がスタートした。

三浦碧水

 このころの町吏員は、書記一〇人、使丁四人で、収入役を合わせてもわずか十数人であった。町政を補佐するため、町議会の議決で選出された常設委員を合わせてもきわめて小規模な構成であり、仕事の範囲は限られていた。