明治三十一年(一八九八)、三浦碧水は豊橋米麦(べいばく)取引所の理事長に就任後、手ぜまを理由に取引所を関屋から花田へ移転する計画を立てた。これに対し、商業利権の減少を恐れた関屋町を中心とする商工業者たちは移転反対を唱えた。
この移転反対の呼びかけに応え、商工業者達を自分の勢力下に結集させようと登場したのが遠藤安太郎(やすたろう)であり、その組織が豊橋実業談話会(じつぎょうだんわかい)である。各町から集まった発起人八九人は趣意書を各方面に配布し、明治三十一年五月一日に発会式をおこない、十日には総会を開いて米麦取引所移転反対決議を採択した。
遠藤安太郎
実業談話会を中心とする反対運動は、激しくおこなわれていたが、三浦碧水はこれらの反対運動に目もくれず、明治三十二年一月、当初の目的どおり花田町石塚に米麦取引所移転を強行した。ところが、移転前から悪化していた取引所の経営状態は移転しても好転せず、商業会議所会頭に就任していた碧水は、三十三年九月、混乱の続くなかで責任を取って会頭を辞任してしまった。
この後、明治三十五年の三月、三浦派を排除して商業会議所会頭の座についたのが実業談話会の遠藤安太郎であった。遠藤は、高橋小十郎(こじゅうろう)や原田万久(まんきゅう)などの実業談話会系の人々で商業会議所役員を固め、六年余の長期にわたり商業会議所を支配していく。彼の率いる実業談話会は、当初、政治とは関係ないところから出発し活動していたが、三浦派との抗争から、しだいに自由党との結びつきを深くしていった。
一方、遠藤安太郎らの実業談話会と対立していた三浦碧水を中心とする改進派は実業談話会の組織化に刺激され、組織づくりの必要性を感じていた。そこで、実業談話会の会員の切り崩しに尽力し、改進派の組織づくりをおこなったのが大口喜六(きろく)である。
大口は、会員のうち佐藤市十郎(いちじゅうろう)、中村東十らに実業談話会の脱退を勧めた。彼らが大口派に傾いたことから続々と脱会者が現れ始めた。そこで大口は、中村東十と協力し、有志を上伝馬町の伊東屋に集め、同志団体を組織した。参加者は約一七〇人、会の名前を公同会(こうどうかい)と決めた。
このように、豊橋の実業界や政界のイニシアチブを握るために生まれた二大勢力は、豊橋の政財界を二分し、地方議員選挙をはじめ市制施行論の賛否など、常に正面から対抗・衝突を繰り返すことになっていった。
公同会と実業談話会の対立は言論界にも反映し、公同会系の「参陽新報(さんようしんぽう)」と実業談話会系の「新朝報(しんちょうほう)」に分かれ、たがいに市民の世論をかきたてた。
新朝報 明治35.9.28 豊橋市中央図書館蔵
参陽新報 明治33.4.28 豊橋市美術博物館蔵
明治三十二年二月に創刊された参陽新報は、はじめ自由派の新聞として発足したが、三浦碧水の甥が社長となってからは改進派へと変わっていった。さらに、大口喜六もしきりに参陽新報に寄稿していた。
これに対して新朝報は、参陽新報より遅れて明治三十三年十一月に創刊された「めざまし新聞」が「社交新聞」となり、さらに三十五年に改題して新朝報となったものである。経営者は自由派であり、実業談話会系の遠藤安太郎の義弟であった。
この二つの新聞はことごとく対立し、盛んに論戦を交えた。この新聞の論戦につれて、豊橋の人々の政治熱は高まり、世論も大きく二分されていった。
豊橋商業会議所と豊橋商工品陳列館
豊橋商業会議所は、豊橋に米麦取引所を開設することを前提に設立された。
江戸時代、吉田には御蔵米を中心に各地の産米を取引する米会所や相場会所があったが、明治九年(一八七六)、政府の命令により廃止されて以後そのままになっていた。そこで、豊橋実業界のリーダーを自認する三浦碧水の念願は、米や麦の取引所を再興し豊橋の商取引を活性化することであった。
明治二十六年に取引所法が制定されると、碧水はただちに米麦取引所を設けようとしたが、政府は商業会議所のないところには認めない方針であった。これにより、豊橋商業会議所が札木に設置され、碧水は仮会頭、後に会頭に就任した。翌二十七年、豊橋米麦取引所が関屋に開設され、碧水は監査役に就いた後、三十一年から一六年間、死の直前まで理事長を勤めた。
こうした碧水の動きに対し、彼と対立する遠藤安太郎は自らの率いる実業談話会の結束を固めることに心がけた。その表れが明治三十五年五月、現在の松葉公園付近に開設された豊橋商工品陳列館である。
この陳列館は、生糸・麻真田をはじめとする豊橋の重要物産を紹介するための施設ではあったが、本音は実業談話会会員の保護と繁栄をはかることにあり、実業談話会会員の結束のシンボルとして、また、同会の出先機関として機能し、昭和まで続いた。
ところが、陳列館の完成に先立ち、遠藤安太郎は明治三十四年七月には商業会議所の副会頭、三十五年三月には会頭に就任した。彼が商業会議所会頭の顔と商工品陳列館長の顔の二つを持つことは、豊橋の経済界が三浦碧水から遠藤安太郎の支配へと大きく動いたことを意味する。それと同時に、遠藤安太郎会頭のもとで実業談話会が実質的な商業会議所の機能を代行し、商業会議所は有名無実化した。
豊橋商工品陳列館