大口喜六
彼はそのころ、豊橋町長と県会議員をかねており、県知事と交渉するのに有利であった。知事との交渉は順調に進み、明治三十九年(一九〇六)、内務省告示により豊橋町は市制施行地に指定された。
これを受けて、豊橋町は市制施行の前提として花田村と豊岡村を合併した。この合併から半月後の明治三十九年八月一日、豊橋は市制を施行した。その祝賀会は豊橋高等小学校講堂で盛大に挙行された。愛知県では名古屋に次いで二番め、全国で六二番めの市の誕生である。
市制施行後の最初の市会議員選挙は、十月十日から三日間にわたっておこなわれた。議員定数は市町村の人口によって定められていたので、豊橋町のときの二四人から三〇人へといっきに六人増加した。そこで市会議員は、納税額によって一級から三級までに分けられ、それぞれ一〇人ずつが選出されることになった。
このころから、公同会は名前を同志派と呼ぶようになり、実業談話会(実業派)と激しい選挙戦を繰り広げた。選挙の結果は、同志派が一八人、実業派が一一人、自由党一人という形で当選者が決まり、同志派の勝利で幕を閉じた。そのため、市会の正副議長はいずれも同志派から選ばれ、市会の主導権は同志派が握ることになった。
こうして成立した市会は、明治三十九年十二月、内務大臣からの市長候補者推薦命令に対して、大口喜六、服部弥八、小野道平の三人を推薦(すいせん)した。
実業派は、大口喜六が明治二十七年に殴打(おうだ)事件で三日間拘留されていることを理由に、市長失格であることを内務省に申請した。しかし、内務省はその問題を取り上げず、大口喜六に決定した。明治四十年(一九〇七)一月、大口は初代市長に就任し、豊橋は彼のもとで新しい歴史を歩み始めた。
市制施行後、大口市長は、市の発展策として師団誘致に力を入れ、明治四十年、高師村に第十五師団の設置をおこなった。さらに軍の誘致にあたっての条件である札木町・上伝馬町の遊廓(ゆうかく)を東田に移転した。この師団設置と遊廓移転により、市街が南部と東部に延長され、街の姿を大きく変える契機になった。
師団設置にともない、大口市政が重点的に取り組んだのは道路網の整備であった。当時、豊橋市の道路網は江戸時代のままで近代都市の姿にはほど遠かった。新道路の開設とともに、旧道路の改修も必要であった。
主要道路の施工 |
路線名 | 区間 | 竣工年月 | 幅員 | 工費 |
八町線 | 東八町~東田町 | 明治 43.12 | 4間 | 25,000円 |
大手線 | 札木町角~柳生橋 | 44. 3 | 7 | 68,200 |
新停車場線 | 神明町~豊橋駅 | 45. 5 | 7 | 57,000 |
牟呂吉田線 | 船町~牟呂吉田村 | 44. 8 | 3 | 4,270 |
瓦町線 | 瓦町~東田遊廓 | 45. 3 | 4 | 8,000 |
上伝馬線 | 上伝馬町~湊町 | 大正 元.10 | 3(拡張) | 9,000 |
萱町線 | 上伝馬町~花田町 | 3. 9 | 4.1 | 31,800 |
船町線 | 船町~豊橋駅 | 4. 6 | 4 | 36,600 |
大手線 | 札木町角~八町 | 7. 2 | 2(拡張) | 800 |
中柴線 | 中柴町~花田町 | 3. 8 | 2.1 | 6,500 |
船町6号線 | 東郷豊川岸~牟呂吉田村 | 11. 3 | 2.05 | 4,700 |
花田守下第3号線 | 船町線分岐~花田町守下 | 12. 3 | 3 | 3,368 |
萱町線支線 | 花田町~高師村福岡 | 11. 3 | 4 | 17,500 |
「豊橋市史第三巻」より |
明治四十三年には第一期工事として街路幅も従来より広げ、まず、新停車場通り・八町線・大手線などの幹線道路が完成した。続いて、明治四十四年(一九一一)から始まった第二期工事の完成で、豊橋市の重要な幹線道路はほとんど開設された。また、大口市長は新道路の開設と同時に、豊橋市の玄関口である豊橋駅の機能向上・模様がえにも取り組んだ。
停車場通り
大口市政は、一方では市制施行と第十五師団設置を中心に、豊橋の都市としての基礎を固めた。しかし、他方では強引ともいえる多くの新規事業を進めるなかで一部の腐敗(ふはい)面が明らかになり、疑獄(ぎごく)事件を引き起こした。部下の汚職は大口市長の政治生命をゆさぶり、彼は在任五年で辞任することになった。全国的にみても、明治四十年代は政党と資本家が結びつく疑獄事件が多く発生していた。
豊橋市制が施行されると、明治十七年当時約一万人に過ぎなかった人口は、約四万人と飛躍的に増加した。その後も、産業の発達とともに師団設置もあって、人口は順調な増加を続けた。
豊橋ホテルの開業
発展を遂げている豊橋市が一つの公会堂も持たないのは、体面上残念なことだと多くの市民は考えていた。
実業派の実力者である遠藤安太郎は、仲間とともに明治四十三年十一月、市内の景勝地である関屋の旧百花園(ひゃっかえん)跡に「豊橋ホテル」という公会堂と料亭を兼ね備えた建物を新築した。
総敷地七五〇坪(二四七五平方メートル)の中に三棟三〇〇坪(九九〇平方メートル)の建物を持ち、大広間は三〇〇人収容の大宴会を開くことができた。また、中庭には珍しい岩や樹木が植えられて眺めがよく、豊橋一の名所と評判にもなった。
この新名所は軍都豊橋の体面を保つと同時に、近代化への一歩となった。
豊橋ホテル