日清戦争と歩兵第十八聯隊

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 徴兵令から一〇年、明治政府は西南戦争の処理も完了して、国内治安の確保の上で大きな政治上の区切りをつけた。明治十五年(一八八二)、政府は軍人勅諭(ちょくゆ)によって軍隊の性格を規定し、軍人のあり方の指針とした。同時に、朝鮮半島を中心とする隣接の諸問題に力でも対応できるようにと兵力増強方針を発表した。
 陸軍は軍備充実一〇か年計画を作成し、従来の歩兵一四個聯隊(れんたい)を、さらに一〇個聯隊増設することを決定した。歩兵第十五聯隊から第二十四聯隊までの新聯隊が生まれることになる。
新設聯隊 明治17年 1884
鎮台聯隊名
東京歩兵第十五聯隊  (一大隊)
仙台歩兵第十六聯隊  (三大隊)
名古屋歩兵第十八聯隊  (三大隊)
大阪歩兵第二十聯隊  (一大隊)
広島歩兵第二十一聯隊 ( 〃 )
〃 歩兵第二十二聯隊 ( 〃 )
熊本歩兵第二十三聯隊 ( 〃 )
〃 歩兵第二十四聯隊 ( 〃 )
「豊橋市史第三巻」より

 まず、明治十七年中に八つの聯隊が新設され、名古屋鎮台には歩兵第十八聯隊が設置されることになった。しかし、豊橋には千数百人の兵員を収容するだけの兵営はなかった。そこで、第十八聯隊は、名古屋城内旧三の丸に設置されていた歩兵第六聯隊第三大隊兵舎を仮屯営(かりとんえい)とし、同年六月に新設された。
 陸軍省はこうした仮屯営を解消するため、三万二〇〇〇坪(一〇万六〇〇〇平方メートル)に及ぶ旧吉田城内に建坪約一五〇〇坪(五〇〇〇平方メートル)、総工費約七万五〇〇〇円で兵舎建設を開始した。木曽ひのき材を用い、刈谷・西尾の授産所(じゅさんじょ)などで屋根瓦の製作にあたらせたがっちりしたものであった。
 明治十八年四月、兵舎の大半ができあがると第十八聯隊は新設兵営へ移動を開始した。翌十九年五月には兵舎が完工し、聯隊本部と第一大隊の移動を最後に、すべてが豊橋に集結し移動を完了した。

歩兵第十八聯隊営門


歩兵第十八聯隊の位置 「豊橋市政五十年史」より

 明治維新以来、着々と軍備を整えてきた日本は朝鮮侵略の機会をうかがっていたが、江華島(こうかとう)事件によってまず日朝修好条規を結んだ。さらに、朝鮮国内に起きた政変によって日清が対立、東学党(とうがくとう)の乱が国内に広がると日清両国は朝鮮の主導権をめぐって衝突した。日本は明治二十七年(一八九四)八月一日、清国に対して宣戦を布告し、日清戦争が始まった。
 動員命令を受けた歩兵第十八聯隊は直ちに召集をおこない、野戦軍の編成に入った。そして、同年八月二十三日夜から二十五日にかけ、聯隊は豊橋を後にした。
 動員されてから一一か月、聯隊は平壤(ピョンヤン)、海城(ハイチョン)、鞍山(アンシャン)、牛荘(ニューチャン)、田庄台(ティエンツァンタイ)を転戦した。明治二十八年四月、講和条約が調印されると七月に豊橋に帰着した。
 凱旋(がいせん)する歩兵第十八聯隊を、三河の各郡長、町村長はじめ多くの人々が豊橋駅まで出迎え、旗をふりながら万歳を唱え、無事の帰還を祝った。
 
豊橋停車場事件の発生
 歩兵第十八聯隊の兵士の出身地は、赤石山脈から太平洋沿岸の渥美半島先端に及ぶ農山漁村が多かった。そのため、彼らにとって都市の景観や刺激は興味のあることであった。
 明治二十一年(一八八八)九月、東海道本線豊橋停車場が新設された。翌年の二月、三人の兵士が豊橋停車場に出かけ、見物中に駅員との間にトラブルがおきた。口論の末、駅員に拘束され、これがエスカレートして事件に発展した。
 この背景には、鉄道員のエリート意識と徴兵による兵士の意識の格差がある。その後、駅員は外出日に石を手ぬぐいで包んで持ち歩き、兵士は帯剣(たいけん)の柄を握りしめ道をすれ違ったという。

豊橋停車場