日露交渉が決裂した明治三十七年(一九〇四)、日本は口シアに宣戦を布告した。日露戦争である。
この年の三月六日、第三師団に動員令が下った。歩兵第十八聯隊が置かれていた豊橋では、応召(おうしょう)兵などの兵士でごったがえし、平時の二倍にふくれ上がった。聯隊は八町練兵場に集結後、三月二十五日から二十六日にかけて第一大隊を先頭に八町門から大手通りを進んで中国東北部の満州へと向かった。
主戦場は南満州であり、第二軍に所属する第十八聯隊は、南山をはじめ遼陽(リャオヤン)・沙河(シャホー)・奉天(ほうてん)(瀋陽(シェンヤン))へと転戦した。とくに、遼陽と沙河の戦いでは第十八聯隊は多くの死傷者を出し兵力の補充を急がねばならなかった。日露戦争全期間を通し、第十八聯隊の戦死者は五九四人、負傷者は一八五三人に達した。
明治三十八年(一九〇五)、日露戦争は終結へと向かったが、戦争の経過を正しく知らされていない国民にとって意外な結果が待っていた。日本は三十八年九月のポーツマス講和会議で一銭の賠償金も得ることができず、国民は政府の弱腰に原因があるとして不満を抱いた。その不満が、東京の日比谷公園で開かれた国民大会で爆発した。大会では講和条約の破棄と戦争継続を決議し、政府側の報道をした新聞社を襲撃したり、警官と衝突したりした。講和反対運動は全国に波及し、豊橋でも反対運動が起きた。
しかし、出征兵士の家族は、親や主人、兄弟の働き手を失って生活が苦しく、婦人会や恤兵団(じゅっぺいだん)から生活の援助を受けていた。家族の身になってみれば、誰もが一日も早く一家の主が帰って来るのを願っていた。こうした留守家族の感情に対し、講和に反対する戦争継続論を長く主張し続けることはできなかった。講和が既定の事実となるにつれて反対運動は下火となり、やがて消えてしまった。
講和反対運動は政府に対する反対運動であり、軍隊に対するものではなかった。軍隊に対する住民の感情は、凱旋部隊を迎えていっそうの親近感を増した。豊橋では各字(あざ)の尚武会を基礎として、軍人援護のための豊橋市尚武会(しょうぶかい)を組織した。会長は市長、副会長は助役役員は各町内の総代がなり、市の会計からの寄付や町内からの募金を活動資金とした。尚武会の活動の結果軍隊と町民の間に一体感さえ芽生えた。
軍隊と町民の関係は、凱旋部隊の歓迎や尚武会での活動だけにとどまらなかった。軍隊に好意を寄せると同時に、軍隊を豊橋の経済生活の支柱と考えるようになったのである。
日露戦争は一年六か月に及び、ロシア軍には捕虜(ほりょ)(俘虜(ふりょ))として日本軍に捕らわれる者も多く出た。彼らは順次日本に送られ、明治三十七年三月には、まず松山に捕虜収容所が開設された。その後、合計二九の収容所が日本各地に増設されたが、豊橋にも第一一番めとして、関屋町の悟真寺(ごしんじ)などに設置された。豊橋俘虜(ふりょ)収容所である。
明治三十八年三月、さらに一五〇〇人の捕虜が豊橋に送られるという連絡があった。そこで、高師原軍用地の一角に捕虜収容所が建設されることになった。五月、約八五〇〇坪(二万八〇〇〇平方メートル)の敷地に四棟の家屋が完成すると、これを豊橋俘虜収容所高師原収容場とした。収容されたのは下士級の兵卒(へいそつ)であり、厳しい規則の下で捕虜側に不満が出た。しかし、生活レベルの差を考慮し、食料費などは当時の日本兵士の日額一七銭に対し、下士卒で三〇銭と定められていたほか、酒保(しゅほ)が経営されたり収容所内で演劇が上演されたりで、待遇は「俘虜取扱規則」の遵守(じゅんしゅ)により決して悪くなかった。
一方、悟真寺などに収容された将校級の捕虜の待遇はさらに良かった。ハリストス正教会(現八町)で牧師の話を聞いたり、市内を散歩したりするなどかなり自由が認められていた。明治三十八年、ニコライ大司教が慰問(いもん)のために来豊した時、感激した捕虜の中のひとりの画家は聖画二面を描き、豊橋ハリストス正教会に贈った。
ハリストス正教会を訪れたロシア俘虜
同年九月にポーツマス講和条約が成立すると、捕虜将校に対する取り扱いはさらに緩和され、両国兵士が相互敬礼をするようになった。また、捕虜の中には外出して土産物の買い入れや、ただ期日を限るだけの許可証で東京、横浜、静岡、神戸へと旅行する者が増え、帰国前の自由な生活を味わう光景も見られた。
十一月に入ると悟真寺境内の豊橋俘虜収容所の捕虜将校送還を手始めに、高師原収容場の捕虜も送還され、収容所は閉鎖された。収容中に死亡した捕虜は二人で、うち一人の墓碑銘が豊橋ハリストス正教会に保管されている。
ロシア俘虜墓碑板 豊橋ハリストス正教会蔵