第十五師団の誘致

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 零細な蚕糸業(さんしぎょう)を中心とする工業と地元資本では、豊橋の発展はあまり期待できなかった。明治三十九年(一九〇六)、市制を施行したばかりの豊橋が発展策に頭を悩ませている時、日露戦争後の四個師団増設の方針が陸軍から発表された。そのうちの一個師団は東海道筋に設置されることがわかった。師団が設置されると、約一万人に及ぶ兵士、三〇〇人に及ぶ将校の家族が増加し、消費人口も急増する。また、師団周辺の関連企業は市の発展に貢献すると予測された。
 東海道筋の沼津・浜松・岐阜などの各都市は、いっせいに誘致運動を始めた。豊橋もその運動の中に加わって活発な運動を展開した。明治四十年、大口喜六市長は市会筋と協力、陸軍省に出かけて師団の豊橋設置を陳情した。事態は楽観を許さない状態であったので、豊橋市は市会・町総代の協力を得て師団設置期成同盟会を組織し、運動促進を決議した。
 当時、豊橋市の政界は大口喜六市長らの同志派と遠藤安太郎らの実業派とに分かれ、対立が尖鋭化していた。両派とも師団誘致については異論はなかったが、いかにして師団誘致の主導権を握るかが争点になっていた。実業派の近藤寿市郎(じゅいちろう)らの市民会は新朝報によってその論陣をはった。
 こうしたなかで、陸軍省は明治四十年三月、第十五師団を豊橋に設置することに決定した。立候補していた浜松、岐阜も演習地を持っていたが、大陸作戦のための広大な演習地高師原・天伯原を持つ豊橋の方がはるかに師団設置には適地であった。また、沼津は東京以西の防衛地として重要であったが演習地を持っていなかった。
 陸軍省の方針は明示されたが、豊橋市には敷地の問題が発生していた。明治四十一年一月、市会は第十五師団設置にともなって、敷地の一部として三五町二反歩(三五・二ヘクタール)の土地を約一〇万円で買収し、これを陸軍省に寄付することを上程した。
 実業派はこれに反対したが、同志派多数で原案は可決された。「一〇万円寄付問題」に敗れた実業派は、二月県参事会に陳情した。県参事会は五月、三五町歩のうち一四町歩の買収だけ認め、他の二一町歩の無償譲渡を否認した。この決定に実業派は力を得て、寄付反対市民大会を開いて反対気運をあおった。
 大口市長は事態を長引かせては不利になると考え、県知事と相談した。知事は上京して陸軍大臣と面会し、陸軍省が四万円で市有地一四町歩(一四ヘクタール)を買収、残り二一町歩六万円分は市が寄付するという案でまとめた。
 師団の建設工事は、明治四十年十二月から工夫三〇〇〇人を使って地ならしが始まった。民家や耕地は少なく、多くは山林原野であったので作業もはかどり、四十一年四月には建物・側溝・井戸・下水路の工事へと進んだ。十月には主要工事がほぼ完工するという急ピッチであった。この建設のための資材は各地から牟呂港まで船で運ばれた。港から高師村まで、行き二線、帰り一線のレールが敷かれ、人力トロッコで運ばれた。沿道住民はこの労働に競って参加し、思いがけない現金収入を得てうるおった。工事が終わると、トロッコの線路は取り外されて新しい道路となり、師団だけでなく地域の発展にも役立った。
 明治四十一年(一九〇八)十一月、第十五師団は開庁式をおこなって正式に発足した。このころ、蚕糸業の不景気により豊橋の経済は沈滞していた。そこへ師団設置により、市の人口四万人に対し一万人余の人口が消費者として急に増えたわけである。食品や日用品をはじめとする商品の需要増加やサービス業の繁盛は、回りまわって市民の活気を生んだ。第十五師団の誘致は、豊橋が不景気をぬけ出す大きなてことなった。

第十五師団歓迎式


師団が設置されたころの福岡 明治41年 1908 広田長平氏蔵


歩兵十八聯隊第十五師団関係の版画
豊橋之望景 明治21年 1888


豊橋歩兵十八聯隊出営之図 明治39年 1906


豊橋軍隊紀念碑 明治32年 1899


第十五師団及豊橋名所之図 明治42年 1909