軍隊と市民生活

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 第十五師団の設置は豊橋の町のようすを一変させた。豊橋市内の八町・向山とそれに隣接する高師村を拠点に師団関係の施設・関連企業が広がり、文字どおり軍都の色彩を濃くしていった。明治四十一年(一九〇八)、初代の第十五師団長として久邇宮(くにのみや)邦彦王が着任、四十三年十一月には皇太子の巡幸(じゅんこう)、大正四年(一九一五)一月には竹田宮恒久王が騎兵(きへい)第十九聯隊長として着任、大正七年十月には高師原陸軍特別大演習など軍隊に関する行事が続いた。また、高師・天伯原では陸軍演習がたびたび実施され、年中行事のようになった。
 豊橋市街には常に軍人の姿が見うけられ、入営(にゅうえい)・除隊の風景も市民の生活にしだいに定着していった。とくに、毎年十二月の入営の時には、入営者とその付き添い人、村役場の関係者など、年によっては四〇〇〇人を越える人々が市内に人って来た。そのため、旅館や繁華街は人であふれ、市の活性化に大いに貢献した。

除隊記念杯 豊橋市美術博物館蔵

 また、師団の設置により、富本町から小池町にかけては、将校の下宿、兵士用の食堂、酒屋、土産物屋などが軒を並べた。軍隊とともにできあがっていった兵営前町には、郷里から面会に来る家族のための旅館もでき、兵士とその家族でにぎわった。

兵営前のみやげ物屋 遠州屋提供

 これらの店のほかに、御用商人と呼ばれる人たちがおり、兵士の日常生活に必要な品物を師団に納めていた。この御用商人になるには許可が必要で、入札制度により選ばれた商人だけが商売をすることができた。師団の中へ入るには、門鑑(もんかん)という小さな木札を見張りの兵士に見せ、確認を得てから入るしくみになっていた。なお、師団の中には酒保(しゅほ)とよばれる売店が指定の商人によって経営され、ここでも日用品や酒類が販売されていた。二銭の酒保用票で大きなあんまきが買えた。
 当時、師団の兵営から毎日聞こえてくる時を告げるラッパの音は、仕事をする農民たちにとって時計がわりになり、生活にとけこんでいった。数千頭もいる馬の蹄鉄(ていてつ)を打つ音もたえず聞こえ、師団からかなり離れた小浜(こはま)に住む人たちも、この音が聞こえてくると雨が近いと感じたという。
 さらに、化学肥料の乏しい時代、師団から出る人糞(じんぷん)と馬糞(ばふん)は農家にとって貴重な肥料源であった。この肥料をもらうにも許可が必要であったが、師団周辺の農家だけでなく、遠くの村からも大八車(だいはちぐるま)をひいて取りに来ていた。
 このように、師団と市民の生活は密接につながり、豊橋は軍都として発展していったのである。
 
遊廓の東田移転
 大口市長は師団誘致の運動をした際、師団を豊橋に設置する条件として、陸軍との間で札木・上伝馬にある遊廓を適当なところへ移転拡張することを約束していた。これは道路網を整備するうえでも必要であった。
 遊廓(ゆうかく)移転が市会で可決されると、大口市長は県へ所定の手続きをし、これを受けて知事は遊廓移転命令を出した。札木・上伝馬の遊廓業者は、明治四十三年八月までに所轄(しょかつ)警察署に移転届を提出して認可を受け、瓦町と東田に移転しなければならなくなった。
 遊廓移転先の瓦町・東田は、そのころ市街地から遠く離れたへき地であった。八月の規定日までに移転完了した業者は上伝馬一二軒と札木二軒のみであった。他の業者は市から借地しただけで建築はせず、空き地として放置したりする者が大部分であった。なかには札木と上伝馬に残って芸妓置屋(げいぎおきや)に転業するものもあった。九月の開業当初は荒涼としていた瓦町・東田も、大口市長が業者に建築命令を出すなどしたので、ようやく移転も進み形が整っていった。