かわって、中央政府や県の行政機構が整備されるにつれ、東三河の中心をしめる豊橋には、これらの出張所や分署などが設けられ始めた。
明治四年に豊橋郵便取扱所が上伝馬町に、六年に県の東三河の支庁が札木町に置かれた。また、九年に豊橋警察出張所が札木町に、県第二区裁判所が旧吉田本陣清須屋(きよすや)をかりて開庁された。さらに県支庁が廃止された後、十一年に渥美郡役所が大手町に新設された。
これらの行政機関の新設にともない、人々も流入して新しい商業が拡大した。豊橋の中心街であった本町周辺では、横文字書きの看板をかかげる店、外国から輸入した新製品を置く店も軒を並べるようになった。それにつれて、庶民の生活にも西洋の文化がとけこんでいった。
横文字看板をかかげる洋服店 「参陽商工便覧」より
これらの動きに関連して、明治七年、当時はまだ武家屋敷(ぶけやしき)の地域であった関屋の豊川沿いの川岸に、地主らによる荷揚場の新設が計画された。
これに対して、江戸時代から舟運で栄えた船町と湊(みなと)町では商業利権が減少することを恐れた。そこで、有力者の原田万久・佐藤市十郎・高橋小十郎らが中心になって猛烈な反対運動を始めた。
そこで関屋町側では、自由党の村雨案山子を交渉役に選び、反対を押切ってついに新しい荷揚場(にあげば)の新設を強行した。これまでは静かな武家屋敷であった関屋町に数軒の問屋が開業し、人や物の出入りが多くなっていった。
さらに、この関屋町周辺は旧士族の売地なども多くて敷地が得やすく、豊橋の中心部に近かったので、やがて銀行や製糸工場、米麦取引所などが開業し、新しい街を形成していった。
なお、吉田城址に歩兵第十八聯隊が設置されると、士族にかわって軍隊が豊橋の在住者となり、人口や物資の集中を剌激した。また、このころから豊橋における製糸や煙草、毛筆等の特産物が展開し始め、新しい商業や商店街の発達もみられた。
明治三十年代に入ると人口や物資集散の増大、会社企業の発展はいっそうの拍車がかかった。当時、新朝報連載の「豊橋繁昌記(はんじょうき)」には、官庁や学校、会社や銀行・病院や薬局、時計店や旅館、料理店や飲食店などのにぎわいが生き生きと記されている。
半開堂にならぶ舶来品
明治八年(一八七五)ごろ、旧吉田藩士の岩瀬克巳によって、豊橋で最初の本格的な舶来(はくらい)品店「半開堂(はんかいどう)」が札木町に開店した。
主人の岩瀬は、古いてすりを青色に塗ったりして店の体裁(ていさい)を西洋風にするなど工夫した。今、思えば滑稽(こっけい)な店構えであるが、半開堂主人の気持ちの入れようがうかがわれる。
半開堂の店内には、豊橋で最初に売り出されたと思われるドイツのウロコビール、ガラスびんに入ったドロップなどの洋菓子や黒くてかたいパン、ギヤマンのコップなども並んでいた。また、横浜港に荷揚された舶来品も売られていたという。
子どもたちは、江戸時代から使われている天保銭(てんぽうせん)二枚を持ってパン一個を買うのが楽しみであった。天保銭とパン、この珍妙な取り合せは豊橋の文明開花の様子を象徴していたといえる。豊橋で最初の洋品店主人岩瀬克巳は、この時代の流れを敏感に感じ取り、屋号を「半開堂」と名づけたのであろう。