東海道線と豊橋駅の開業

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 東海道線の開通にともない、豊橋駅が明治二十一年(一八八八)九月一日に開業した。開設当時の豊橋駅は、一般に豊橋ステンショとよばれ、現在地よりも少し西よりにあった。駅舎は約四五坪(一五〇平方メートル)、平屋建て瓦ぶきの建物であった。この敷地は伊東次七が無償で提供したといわれている。

豊橋ステンショ(豊橋駅)構内

 東海道線の各駅のほとんどが当時の市街地から遠方の地に設定されたのに対し、豊橋駅は、当時一番の市街地であった上伝馬(かみでんま)町から約六〇〇メートルという近い距離に設けられた。しかも、駅舎建設と並行して上伝馬町までの間に停車場通りが開かれた。これはその後の豊橋の産業・経済や市街地の拡大・発展に大きく役立つことになった。
 豊橋駅が市街地に近接しているといっても、このころの駅周辺には田んぼや麦畑が広がっていた。停車場通りも、みかん畑や薮(やぶ)のなかを横断していた。旅館にしても、駅前に壷屋(つぼや)、岡田屋、相模屋(さがみや)の三店があるだけで、停車場の貨物を扱う運送屋も吉田方の藤城六十吉ら二、三人が共同でつくった二間程度の掘立小屋が唯一のものであった。
 豊橋駅が開業してすぐに、岡田恒三郎が構内人力車の営業を開始した。これ以降は毎日、常時一〇台前後の人力車とその車夫が駅前広場に集まり、汽車の到着を待つ風景が目を引いた。また、翌二十二年には加藤庄六(しょうろく)が弁当の販売を開始した。
 なお、二川駅は豊橋駅の開業よりも八年遅れ、明治二十九年(一八九六)四月に開業した。開設された場所は二川の町並から西に離れたやや不便なところであった。
 東海道線の全通にともない、旅客運賃はそれまでの区間制から距離比例制に変わり、下等は一マイル(一・六キロメートル)一銭、中等二銭、上等三銭となった。その後、運賃は若干の改正があったものの、明治期を通じて大きな変動はなかった。当時の人夫の日当が二〇~二五銭であったから、二日間働いた手当てで浜松~豊橋間を往復できるかできないかというほどの高い運賃であり、一般大衆が手軽に利用できたわけではない。なお、上・中・下等と呼んでいた客車は、明治三十年十一月に、一等白塗り、二等青塗り、三等赤塗りというように色別されるようになった。
 豊橋駅での乗降客人員と取り扱い貨物の数量、およびその収入をみると、開業から四年後には年間の乗客が一〇万人近くに達し、さらに五年後にはその二倍近くに増加し、明治三十二年(一八九九)には四〇万人近い乗降客になっている。貨物も、乗降客と大体同じような比率で取り扱い量が増加していることがわかる。
豊橋駅乗降客・取り扱い貨物量
内訳乗降客人員貨物トン数乗降客貨物
年度
明治24年94,473人12,787トン35,411円18,771円54,182円
29年175,42919,38467,88235,667103,549

豊橋・二川駅駅乗降客・取り扱い貨物量 明治32年1899
内訳乗客人員貨物トン数乗降客貨物
駅名
豊橋駅392,029人29,969トン132,465円55,532円178,997円
二川駅48,0171,5097,7225,02212,749
「愛知県統計書」より

 明治三十年には入場券の制度ができ、三十一年に初めて急行列車に電灯がついた。
 明治四十年末には豊橋~蒲郡間が複線となった。このころになると乗降客はさらに増加し、翌四十一年の年間乗降客数は七〇万人を越えるに至った。貨物の増加もいちじるしく、非常時における第十五師団の移動の問題ともからみ、手ぜまになった豊橋駅の拡張を避けがたいものにした。こうした実情から市と商業会議所は関係当局に豊橋駅の拡張を請願した。陸軍省もこれを支持し、総経費一五万円の拡張が決定した。拡張のための敷地八八〇〇坪(二九〇〇〇平方メートル)も四十三年(一九一〇)に買収が終わり、直ちに着工の予定であったが暴風雨による洪水のために遅れ、着工は翌年になった。新駅舎が完成したのは大正五年(一九一六)である。
 
豊川鉄道の誕生
 現在の飯田線の前身である豊川鉄道は、明治二十九年(一八九六)より着工され、三十年に営業が開始されたが、着工に至るまでに多くの問題を抱えていた。豊川鉄道の最初の敷設(ふせつ)計画は、士族授産の一つの方法として、豊川稲荷への参詣客(さんけいきゃく)の輸送を目的に旧吉田藩士により発案・請願された。しかし、これに刺激されて七路線の鉄道請願合戦となり、最終的に決定したのは二十七年のことであった。
 その後、三十三年には大海(おおみ)まで延長され、全長二七・九キロメートルとなった。沿線には、豊川稲荷、砥鹿(とが)神社、野田城址などの観光名所があって評判はよかったが、貨物収入が最初の見込みより少なくこれが経営難の一因となった。

豊川鉄道