豊橋の政財界の重鎮(じゅうちん)であった三浦碧水、佐藤弥吉(やきち)、福谷元次(もとじ)ら八人が発起人となり、資本金一万五千円で豊橋電灯株式会社を設立した。福谷元次らは自分たちの力で電灯をつけ、町を不夜城として豊橋の商工業を盛んにしようと考えた。先進地を調査した結果、幅一間(一・八メートル)、深さ二尺(六〇センチメートル)、高さ一丈(三メートル)の水流があれば、水力発電により三〇〇灯くらいの電力はまかなえることがわかった。
発電所は、梅田川の上流の細谷川(高師村地内)で農業兼水車業を営んでいた加藤弥平次(やへいじ)が所有する水車場を買い、ここを二三馬力の洋式水車に改造して発電を始めた。
明治二十七年四月から開業したものの、水量不足で発電量が確保できなかったり、火力と併用しても送電がうまくいかないことも多かった。このため、明るさもランプに及ばないと、世間の評判はよくなかった。そこで、明治二十八年、牟呂村の大西地内に牟呂用水を利用した水力と火力併用の発電所を建設した。農業と電力が用水を共用する新しい試みである。しかし、予定の出力が得られず、発電機を新しい機械に改造させるなどして、ようやく成功した。
牟呂発電所址
開業当初の明治二十七年には需要戸数四七戸、取り付け白熱灯一四三個であったが、二十八年には四七八個とわずか一年で三倍以上も増加した。電気料金は電球一個で一か月一円三〇銭であった。このころの物価をみると、米一俵が五円以内で買えたというから、かなり高かったといえる。
電灯数の増加 「豊橋市史第三巻」より
最初の供給先は歩兵第十八聯隊であり、やがて、官庁や商店街さらに一般家庭へと広がっていった。とくに日清戦争後は産業の発展などにより電力不足を招くほどであった。また、日露戦争後は企業熱にともなう工業などの電力需要や、会社や商店、役所や一般家庭などにおける電灯の取り付け希望が急増した。
そこで、明治三十九年に社名を豊橋電気株式会社と改め、電灯のほか電力販売にも乗り出した。そして、電力需要に対応するために、南設楽の作手(つくで)村に見代(けんだい)発電所を建設した。さらに、四十一年に第十五師団が誘致されると、電力需要は大きく増加したため下地町に火力発電所を建設して、長篠水力発電所の完成までの急場をしのいだ。
電力需要の増加にともなって電気料金は安くなり、明治四十五年(一九一二)には一六燭光(しょっこう)が七五銭にまで値下がりした。これは開業時のおよそ半分の値段である。さらに、白熱燈にタングステン電球を採用して光度はいちだんと上がった。そのため、電気の普及はめざましい勢いで市民生活に広まっていった。
瓦斯(ガス)は電気よりおくれて、明治四十一年(一九〇八)地元の神野三郎と福谷元次ら七人が発起人となり、瓦斯事業の経営を役所に届けた。四十二年に許可がおりるとさらに原田万久ら六人、名古屋から神野金之助ら二人を加え、一五人が発起人となって資本金五〇万円の豊橋瓦斯株式会社を設立した。
当時の市民の大部分は、あいかわらず昔ながらの灯油やローソク、石油などを主な照明源に使用していた。そこで、当時では最も明るい照明であったガス灯を主目的とし、熱用や動力用となる瓦斯は文明の用具といわれ需要も少なかった。しかし、他の熱源より高価とはいえ強い需要も見込まれていた。
明治四十三年、豊橋瓦斯株式会社は開業した。料金は瓦斯二八.三立方メートル当たり、灯火用が二円四〇銭、動力用が二円のほか、貸し付けたガス器具の料金も一か月あたり七輪が三銭、新案灯も三銭などであった。
このころのガス灯は、電灯や石油灯、灯油やローソクなどに比べてはるかに明るかった。タングステン電球が普及するまでは照明器具の王者といわれ、店頭の照明や軒灯によく使用された。とくに、ガス街灯は宣伝効果が大きかった。夜のとばりの中に青く光を放ち、ムード満点な光景は市民の評判にもなった。明治四十五年に市役所前・魚町などに、大正元年(一九一二)に東八町・曲尺手・西宿・船町などにガス街灯が設置され、道行く人の目をひいた。