飛脚から郵便局へ

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 維新直後の通信方法は、江戸時代の私的な飛脚業者に頼る以外になかった。しかし、この方法は、江戸・京都・大阪を中心として、そこから地方都市に配送するので郵送範囲も限られ、また三都で中継されるために時間も費用もかさむのが常であった。こうした状態を改めるため、明治政府は通信網の近代化を急がねばならなかった。
 旧幕臣の前島密(ひそか)は、明治三年(一八七〇)五月に駅逓(えきてい)権正に就任すると、民部省に対して官営郵便の開設を要請し、四年三月一日に官営郵便を開設した。
 これにより、豊橋郵便所が呉服町に開設され、書状集箱も各所に設置された。その後、豊橋郵便所は船町に移され、さらに札木町から上伝馬町へと二回の移転を経て、電信局と合併して再び札木町に戻った。
 官営の郵便が開設されてまもなく、遠近に関係なく全国均一の料金になると利用者も急増した。
 明治十九年(一八八六)の豊橋郵便局の郵便料収入は、三〇五一円四五銭であった。また、この時の豊橋郵便局の内容は、豊橋局管内に郵便集函(しゅうかん)が九か所、切手売場が一〇か所設けられており、取り扱った郵便量は発送分が約八万九〇〇〇通、到着分が約八万三〇〇〇通であった。このころの豊橋町の人口は約一万一〇〇〇人であったので、一人当たりでは八通の手紙を出したことになり、郵便制度が広く一般に普及したことがわかる。

豊橋郵便局事務風景(大正期)