第八国立銀行と中村道太

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 明治政府は、殖産興業(しょくさんこうぎょう)をはかるため近代的な工業や鉱業を日本に導入した。同時に民間に企業の設立をうながすために、まず資本をつくり出す銀行の設立を勧めた。政府が明治五年(一八七二)十一月に発布した国立銀行条例は銀行の設立に基準を与えたものであったが、六年には早くも渋沢栄一(しぶさわえいいち)の手によって最初の国立銀行が東京に創設された。これを第一国立銀行と呼び、それ以後創設された順に第二、第三と名づけた。
 豊橋につくられた銀行は八番めであったので、第八国立銀行と名づけた。まだ名古屋にも国立銀行は設立されておらず、豊橋の銀行設立は東海地方で最も早かった。
 この第八国立銀行の創立を計画したのが、中村道太(みちた)であった。中村道太は天保七年(一八三六)、吉田藩の下級武士の子として生まれたが、二八歳のときに福沢諭吉(ゆきち)に会って、その知遇を得てから立身の道を開き、東京日蔭町の自宅に唐物店を開いたのを踏み台として、実業界に飛躍していった。

中村道太

 財政手腕を買われ、福沢門下の早矢仕有的(はやしゆうてき)と名をつらねて丸屋商社(現丸善)の社長の待遇を受けた彼は、郷里の出身者を登用することに心がけた。そのため、明治十年の丸屋商社の社員八六人のうち、一七人が豊橋地方の出身者であった。三浦碧水も彼によって丸屋に入った一人である。
 明治八年、道太は旧藩士を仲間に引き入れ、本町に豊橋最初の銀行として浅倉屋積金所を設けた。次いで九年には六々社を設けて金融事業に乗り出した。
 さらに、明治十年、道太は地主・富豪を仲間に誘い第八国立銀行の設立に成功した。出資金に、旧藩時代の俸禄(ほうろく)を公債に替え、何か商売をと探していた士族の資金を加えて同年二月に本町で営業を始めた。
 しかし、第八国立銀行はまもなく倒産してしまった。まだ銀行の仕事を知らない人々が多く、預金者や貸出を受ける者がほとんどいなかったからである。資本金を寝かせているだけで、銀行の資金で始めた蚕種(さんしゅ)や精米の事業も士族の商法で失敗してしまった。
 道太の後を継いだ碧水は明治十五年に頭取を辞職し、第八国立銀行は、十九年七月に名古屋の第百三十四国立銀行に身売りをしてしまった。一番の被害者は、虎の子の公債を投じて株主となった士族たちであった。