初等・中等教育の進展

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 明治五年(一八七二)、国民皆学(かいがく)をめざして学制が公布された。豊橋では東・西・南・北の四郷校(ごうこう)が開校したが、教育内容は寺子屋と大差はなかった。翌六年になると、豊橋市域には「第一番小学関屋(せきや)学校」という番号つきで一六校が開校した。その後、開校数は増えていったが全国的に就学率は逆に下がり、愛知県でも明治六年の四八%に対し十一年は三七%と低下した。
 明治十二年の教育令、その後の改正教育令と制度改革はあい次いだが、就学率は一進一退であった。その中で豊橋市域にかかわる渥美・宝飯・八名の三郡の就学率は県内でも高い方であった。十五年、渥美郡の就学率は男子九一%、女子七七%である。
 明治十八年(一八八五)、内閣制が整い地方制度が確立すると、翌十九年には小学校令、二十三年十月には新小学校令が制定され、初等教育の基本方針が定まるとともに、小学校への就学が義務づけられた。
 新小学校令では小学簡易科(かんいか)を廃止し、尋常(じんじょう)小学校の修業年数を三~四年とした。また、同年に発布された教育勅語(ちょくご)は忠君愛国(ちゅうくんあいこく)を教育の基本であることを示し、教育政策はしだいに国家主義重視の方向へと向かっていった。その背景には、自由民権運動への圧力と朝鮮半島をめぐる動きが潜んでいた。さらに、明治三十六年(一九〇三)の国定教科書制度は、こうした国家主義の色彩をいっそう鮮明にした。
 日露戦争後、念願の世界列強の一員として帝国主義国家に仲間入りした日本は、明治四十年に義務教育を四年から六年に延長した。翌年、県下の就学率は男子九八・七%、女子九六・六%と明治期の最高に達した。

愛知県就学率 「愛知県教育史第四巻」より

 義務教育を延長した当時、豊橋市にあった小学校は七校で、そのうち高等科のみは豊橋高等小学校、高等科を併設していたのは岩田尋常高等小学校と花田尋常高等小学校の二校、尋常科のみが東田・八町・松葉・新川の四校であった。とくに、製糸業の急激な発展により、都市機能の中心が豊橋駅に移ってゆくなかで市街地は市の南部方面に発展していった。このため、南部地区にある花田尋常高等小学校と新川尋常小学校では、就学児童が急激に増加して収容能力を越える状況であった。
 大口市長は、師団設置とともに教育施設の整備・拡充にも努力した。明治四十一年(一九〇八)十二月、市会に小学校増設案を提出し、経費約五万円で花田町字狭間(はざま)に狭間尋常小学校を設置することにした。また、これにあわせて新川尋常小学校・八町尋常小学校の増築も実施された。
 こうして、狭間尋常小学校は明治四十二年八月竣工し、花田・松葉・新川三小学校から児童を分割して開校した。しかし、この後も南部地域の発展は続き、四十五年四月に松山尋常小学校が設置された。
 一方、中等教育では、明治二十六年に中等教育を希望する者のために私立補修学校時習館が西八町に開設された。その後、二十八年には町立に移管され、さらに三十三年には県立第四中学校となった。生徒は地元出身者のほかに他府県からも来ていた。これらの生徒は学期と学年の終わりにテストがおこなわれ、平均点が四〇点に満たない者は落第として原級に留められた。

愛知県立第四中学校

 県立第四中学校の明治三十年度入学生をみると、その年の年度末テストで、九九人のなかで及第七〇人、仮及第六人、落第二二人、未試験一人という結果であった。いかに多くの生徒が進級できなかったかがわかり、中学校の学業の評価の厳しかったことを物語っている。
 このほか、豊橋の教育の進展として注目されるのは私立豊橋商業学校である。当時、豊橋の主な生業が商工業であるにもかかわらず、実業教育をほどこす機関がなかった。そこで、その必要性を感じ実業学校の実現に期待する声が強かった。明治三十三年から三十五年の三年間にわたり、豊橋商業会議所会頭であった遠藤安太郎(えんどうやすたろう)は、公立商業学校設置を町長に請願した。
 しかし、請願は受け入れられず、遠藤は独力で商業学校を建設する意思を固め、明治三十九年四月、国の認可を受けて私立豊橋商業学校を開校した。その後は世間の要望に応えての開校であっただけに賛同する人も多く、学校は順調に運営された。さらに、学則の一部予科一年を二年に改めて修業年限を五年とし、生徒定員も二〇〇人から二五〇人に増加した。やがて、ここを巣立った卒業生たちが豊橋の産業界の一翼をになうことになる。
 また、女子の中等教育についてみると、明治という男尊女卑の時代背景のなかで、女に学問はいらないという考え方が一般の人々に固定しており、せっかくできても廃校に追い込まれるケースが多かった。
 こうしたなかで、明治三十五年(一九〇二)、三河で初めての女学校として豊橋町立高等女学校が設立された。修業年限四か年、生徒定員三〇〇人とし、初年度は九〇人を収容する二学級編成であった。校舎は西八町の尋常小学校旧校舎を利用し、額田(ぬかた)郡や県外からの生徒も集めて授業を始めた。その後、豊橋が市制を施行するのに際して学校を旭町に移転した。
 一般の教育施設が整い始めようとする矢先の明治三十一年、塩津村拾石(ひろいし)(蒲郡市)に耳・口の不自由な者を対象とする私立拾石訓唖(くんあ)義塾が開かれた。この種の施設では全国で三番めという。しかし、まもなく経営にゆき詰まったため、翌三十二年、豊橋町の小山与作は豊橋に移転し、札木町に私立豊橋盲唖(もうあ)学校を設立した。現在の県立豊橋聾(ろう)学校の前身である。