東雲座
人々が演劇を楽しんだ東雲座も、豊橋の町制、市制運動の時には、政談場としても使われた。
この東雲座以外にも、朝倉座や宝栄座、弥生座(やよいざ)、豊橋劇場などがあり、尾上菊之助(おのえきくのすけ)や市川左団次(さだんじ)など中央の歌舞伎界の名優が登場して、名演技を披露(ひろう)している。また、新派劇もしばしば上演された。とくに、明治四〇年におこなわれた東雲座の山口一座による「影法師(かげぼうし)」と、豊橋座の川上音次郎・貞奴(さだやっこ)一座による「貞奴新案舞曲鶴亀」などは、庶民の好評を博し連日満員であった。
明治期における豊橋の小説界は、小栗風葉(おぐりふうよう)、三輪弘忠(ひろただ)、村井弦斎(げんさい)の三人によって代表される。
なかでも、明治の小説界に大きな足跡を残した小栗風葉が、晩年を豊橋で過ごしたことは有名である。明治二十三年(一八九〇)、風葉は家業を継がせようとする父に連れられ、郷里の知多郡半田村を後に上京した。しかし、文学への志が強く、家業を弟にまかせ翌年尾崎紅葉に入門し、二十九年には出世作となった「亀甲鶴(きっこうづる)」を発表した。この作品は出身地が酒造地であることから、紅葉の勧めもあって酒造に関する知識をいかして書き上げた力作であり、幸田露伴(こうだろはん)の激賞を受けた。
明治三十三年、豊橋の素封家の娘と結婚し、三十八年には長編小説「青春」を発表した。しかし、耽美(たんび)派や白樺(しらかば)派の台頭で時代の流れから取り残された風葉は、四十三年に豊橋へ帰り、その後は新聞や婦人雑誌に多くの長編を発表したにとどまった。
小栗風葉 「青春」 豊橋市中央図書館蔵
児童文学の世界において、特異な存在であったのが吉田関屋町出身の三輪弘忠である。明治二十三年、彼が宝飯郡の第一高等小学校長時代に出版した「少年之玉」は、わが国最初の児童文学書である。当時の主流がおとぎ話や仇討ちの類だけであったのに比し、構想・スケールとも大きく、ダイナミックな展開を見せている。ただ、この一作だけで、その後の彼はチャンスに恵まれず、文学界では不遇に終わった。
また、新聞小説の大衆化という点で吉田出身の村井弦斎の働きも大きい。生涯の大部分を東京で過ごした彼が、明治二十九年七月から東京の報知新聞に連載した長編小説「日の出島」は、その娯楽性を読者に買われて新聞の発行部数を伸ばした。
明治前期の豊橋地方の歌壇は、羽田野敬雄と竹尾正久らが中心となって幕末の流れを受け継いでいた。この流れを汲み、豊橋地方歌壇のリーダー的役割を果たしたのが富田良穂(よしほ)である。明治二十六年(一八九三)、彼は三河で最初の月刊和歌誌「さとのひかり」を創刊し、歌道の普及に努めた。以後、昭和十七年(一九四二)に戦時下の強制統合令で名古屋の「国の花」に統合されるまで、五九四号と版を重ねた。同誌は地方誌ではあったが、出詠者は三河を中心に尾張をはじめ東京・静岡・新潟・岐阜にまで及んでいた。
「さとのひかり」 豊橋市中央図書館蔵
こうしたなかで、正岡子規(しき)が推進する短歌改革の新風が豊橋にも吹き込み、明治三十六年、無花果(いちじく)短歌会が結成された。翌年には豊橋短歌会と改称されたが、活動はやや不振であった。
俳諧においても、歌壇の場合と同じように江戸時代の延長であり、佐野蓬宇(ほうう)を中心とする活動が明治期まで引き継がれた。蓬宇は明治二十八年、八七歳で没するまで活動期間は非常に長く、作品は質・量ともに群を抜いていた。俳諧の連歌にあたる連句集「蓬宇連句帳」、および一句独立の発句(ほっく)集「梓上(あずさのうえ)集」は彼自身の手で整理されたものである。
蓬宇没後の明治二十八年、新朝報の主筆であった藤波蛙流(ありゅう)は豊橋地方で最初の俳誌「蛙流草紙」を創刊した。蛙流はじめ、小野杜堂(とどう)らのメンバーはいずれも蓬宇の門人であったが、内容的には正岡子規の唱える近代俳句を誌上に紹介する意欲的な俳誌であった。
俳諧の新気運は、さらに別の句会の結成になって表れた。明治三十四年、朝倉貞二と下村快雨(かいう)は喚雲(かんうん)会を創立し、近代俳句集として豊橋最初の「喚雲会句抄」を発行した。三十七年、喚雲会は低迷を続けていた前述の豊橋短歌会を吸収合併し、文芸雑誌「甲矢(はや)」を創刊した。甲矢とは弓道で的をねらう時の最初の矢のことであり、その道の先駆を意味する。しかし、先進的な同誌も四十年に八号をもって廃刊となり、以後、大正初期まで豊橋俳壇は空白となる。
なお、漢詩文では小野湖山(こざん)、石川鴻斎(こうさい)が知られている。湖山は安政の大獄に際して吉田城内に幽閉されたが、後に藩主信古(のぶひさ)の信任を回復した。鴻斎は南画の余技も持っていた。両人ともに、その学識を基に格調高い漢詩文を多く残している。
美術界をみると、明治初期の豊橋の画壇は、四条、土佐、狩野という職業画家流派が支配的であった。そこへ登場したのが渡辺崋山(かざん)の第二子渡辺小華(しょうか)である。
旧田原藩の重役として廃藩置県にともなう処理を終えた小華は、明治七年(一八七四)に豊橋に移り、その後、十年には吉田神社境内に居を構えた。庭前に四季の草花を植え、ここを百花園(ひゃっかえん)と呼んだ。このあたりは文化人が多く、百花園は文化人の集まる場所として有名になり、画家をはじめ遠く訪ねてくる人々も多かった。十五年に上京するが、その間、内国勧業博覧会や名古屋博覧会、および内国絵画共進会に出品し、数々の賞を獲得した。また、多くの門人育成にあたり、小華門下生は明治期の豊橋画壇の主流をなした。
上京後、小華は中央画壇で活躍し始めるが、明治二十年、五十三歳の若さで没した。
渡辺小華 「渉園九友図」
小華門下生の中で、リーダー格として高く評価されているのが大河戸晩翠(おおこうどばんすい)である。彼は牛川村の正太寺で住職を勤めるかたわら、余技として画をよくした文人画家であった。師である小華の影響を受けて水墨画を得意とし、独自の画風を持っていた。代表作には「大根之図」「老松(ろうしょう)図」などがある。
その他の主な小華門下生には、森田緑雲(りょくうん)・植田衣洲(いしゅう)・鏑木華国(かぶらぎかこく)・井上華陵(かりょう)らがいた。
小華門以外の画家としては、稲田文笠(ぶんりつ)に師事して文晃(ぶんちょう)系の画法を受け継いだ職業画家の鈴木拳山(けんざん)がいる。生涯を独身で通した酒好きの奇人ではあったが、山水画・花鳥画・人物画など画域は広かった。代表作には「神州奇観(きかん)図」「雲龍(うんりゅう)図」などがある。
拳山の存在は別として、明治期の豊橋画壇は渡辺崋山の流れを汲む崋椿(かちん)系南画の一色となり、余技として画に親しむ者が増加した。しかし、組織としての日本画会を結成するまでには至らなかった。