地券 明治11年 1878 西植田区有文書
本格的な改正事業着手に先だち、政府は明治四年(一八七一)にこれまで租税が免除されていた三府のうち、まず東京府の武家地・町地に地券を発行し、地租を納めるよう命じた。次いで大阪・京都の二府にも同様に実施した。その後、他の各県もこれにならって市街地に対して地券を発行し、地価の百分の一を地租として納めることとした。
豊橋市街地については明治五年中に実施されたと考えられる。地券などの実物では証明できないが、後述する地租改正の完了した明治十年の報告書の中に、この時の調べによるものと思われる旧坪数と旧租税額が記入されていることで推定できる。この地券は、地租改正の際の地券と区別して明治五年の干支(えと)にちなんで壬申(じんしん)地券と呼ばれた。
壬申地券の交付がまだ完了しない明治六年(一八七三)七月、地租改正条例が公布された。その主なねらいは土地の収益から計算した地価の三%を金納地租として土地所有者から徴収することであった。その際、地価は政府の収入が減らないように高く定められた。そのため、これからの地租改正事業では地価算定とその前提としての土地面積の確定が中心となっていった。
この結果、豊橋の市街地の面積・地価統計は、
面積 一八万九三四八坪一三(六二万四八四九平方メートル)
地価 九万四六七四円 七銭
となり、平均は一〇〇坪(三三〇平方メートル)当たり五〇円となっている。これは、むしろ初めから平均五〇円となるように地価を設定したと考えられる。ちなみに、三河の市街地では、岡崎が一〇〇坪当たり五二円、西尾が三九円と設定された。
また、田は三七段階に、畑は九段階に分類され、それぞれに地価が定められた。
一方、全国の林野の七〇%は民有の証拠がないとして国有地と定められた。そのため、これまで農民が利用していた林野の入会権(いりあいけん)の多くが奪われることになった。
壬申地券の発行計画から農地の地租改正事業終了までおよそ五年、山林のそれを含めば七年に近い年月をかけて改正事業は一応終了した。愛知県では、明治十年(一八七七)八月に地租改正局に対して地券用紙一四八万八八〇〇枚を申請しており、十一年から十三年にかけて地主に交付された。全国での総数は約一億一千枚にものぼり、二十二年三月廃止に至るまで土地所有権の証明になった。
この改正事業の経過は決して平坦なものではなかった。なぜなら農民たちは、租税の増加と、隠田(かくしだ)などと呼ばれる無税の土地を見つけられることを恐れていたため、彼らをおどしたり説得したりしながら作業を進めなければならなかったからである。愛知県下の各地でも、丈量(じょうりょう)、地価算定などについて多くの嘆願書がみられ、作業に協力的でない状況の中で地租改正作業を進めるには多くの時間が費やされた。
しかし、三河地方では、春日井四三か村の改正反対一揆のような激しい反対運動は起きなかった。上の表のように、三河部は尾張部と異なり、江戸時代に比べ大部分の地域で租税が減ったからであろう。
三河尾張の新旧の税比較 |
明治9年 1876 |
三河地区 | 尾張地区 | ||
郡名 | 増減比率 | 郡名 | 増減比率 |
設楽 | 0.77 | 知多 | 1.34 |
額田 | 0.88 | 愛知 | 1.26 |
渥美 | 0.99 | 春日井 | 1.15 |
八名 | 0.90 | 丹羽 | 1.23 |
平均 | 0.97 | 平均 | 1.19 |
「愛知県農地史」より |