貨幣経済の進展と農村

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 地租改正によって全国的に統一された近代的な税制が整い、また、近代的な土地所有権も確立した。しかし、地租が金納化されたことによる貨幣経済の広がりは、農村に大きな影響を与えた。米をはじめ農作物は商品としての性格をこれまで以上に強め、農村は経済変動の影響をまともに受けるようになった。
 米価の下落は、地租が金納であるため地主の負担が重くなる。これは経営規模の小さい中小地主ほど深刻な影響を受け、日用品などの消費支出を圧迫した。

明治期米価の変動(1石あたり)

 また、小作料を米の現物で地主に納める小作人の場合も、米価の変動は無関係ではなかった。地主は江戸時代に引き続き、収穫米の半分以上を年貢として取り立てていた。小作人にとって、この高い小作料が重荷であると同時に、貨幣経済の浸透による消費支出の増大のため、手もとに残った乏しい自分の取り分を換金する必要があったからである。
 こうした時期の豊橋地方における農村のようすをみると、この地方は幕末期より木綿(もめん)・藍(あい)・菜種(なたね)など商品作物を多く生産してはいるが、その後の資本主義経済の展開にともなう影響も大きく受け、それほど容易に適応できたわけではなかった。
 豊岡村の例では、明治三十四年(一九〇一)の各種農作物の生産と消費の関係は、米の場合、生産額の約六〇%を村内で消費してしまうものの、現金収入の総額に対する割合は五四%を占めている。生産額としてこれに次ぐものは麦類であるが、ほとんどを村内で消費しており、現金収入にはなっていない。これに対し、養蚕(ようさん)業は生産額でこそ麦には及ばないが、現金収入総額の三四%を占めている。米と繭(まゆ)でこの村の現金収入のおよそ九割を占めているが、米に頼る度合いが依然として大きいこと、江戸時代に盛んであった商品作物の栽培に替わって養蚕業が副業として成長してきたことなどがわかる。
豊岡村における各種農作物及び消費金額 明治34年 1901
種別作付反別生産高生産金額消費金額差引消費金額/
生産金額
反 畝 歩
2,597.8 154,429.38452,338.1730,441.44+ 21,896.7358.2%
麦類1,770.5 072,563.25314,119.9913,820.20+ 299.7997.9
雑穀480.6 19435.452,170.251,678.67+ 491.5877.3
豆類233.5 04146.431,180.021,756.20- 576.18148.8
蔬菜186.8 122,280.852,289.02- 8.17100.4
甘薯594.1 07131,474.34,382.472,139.71+ 2,242.7648.8
果物(3224本)1,066.42186.00+ 880.4217.5
綿花28.6 00417.56231.91231.91土 0100
菜種10.1 005.9653.55+ 53.550
除虫菊14.8 10415.62+ 415.620
百合8.0 00282.00+ 282.000
584.4 00128,56810,714.0010,462.33+ 251.6797.7
養蚕(繭)3,606.0613,261.72+ 13,261.720
蚕種400480.00789.60- 309.60164.5
1,800117.90+ 117.900
鶏卵87,0941,306.41144.00+ 1,162.4111.0
104,401.2863,939.08+ 40,462.2061.2
「豊橋市史第三巻」より

 豊岡村の例だけで、豊橋地方すべての農村のようすとは断定できないが、明治期のこの地方の傾向をとらえることは可能である。江戸時代中期以降盛んとなってきた綿作は、とくに豊橋地方では三河木綿の原料として重要な作物であった。明治期に入っても同様に栽培は続けられていたが、明治二十年以後は、輸入綿花に対抗できず衰退の一途をたどった。三十四年の豊岡村でも綿花四〇〇貫(一五〇〇キログラム)ほどの収穫をあげているが、すべてが村内で消費されていることでわかるように、商品作物としての地位を完全に失った。これにともない、木綿畑は養蚕の増加とともに桑畑へと変わっていった。
 養蚕業は当時の貧しい農家にとって好条件の副業であった。しかし、養蚕業の発展により現金収入がもたらされるようになった反面、新しい問題を農村に投げかけることにもなった。
 まず、桑畑の増加は麦作を田の裏作に追いやるとともに、粟(あわ)・稗(ひえ)などの雑穀類の生産面積を減少させた。このため、農民の食生活はこれまでの雑穀類中心から米・麦中心に移った。このことは米の村内消費を増加させ、その分、米の売却収入を減少させた。
 一方、従来の農作業の間に養蚕の仕事が入り、労働は一段と厳しいものになった。この対策として、少しでも作業能率をあげるための新しい農機具を購入したり、労働力の不足による自給肥料の減少を補うために干鰯(ほしか)や北海道産の鰊粕(にしんかす)、さらには大豆粕(だいずかす)を購入したりした。そして、これらの費用に養蚕から得られた収入をあてたのである。
 米の村内消費の増加にしろ、農機具や肥料の購入にしろ、養蚕収入への依存度を高め、それがさらにいっそう養蚕農家を急増させた。このことは明治に入って以後の渥美郡・八名郡の繭生産高の増加ぶりをみてもうなずける。
繭生産高
年次八名郡
明治10年(概算6.5石)
16年(概算146.1石)118.37
21年864
28年2,245
31年3,043
35年2,808 6,310
40年3,414 12,104 629,330
45年3,859 14,787 552,848
年次渥美郡
明治10年(概算49.5石)
16年(概算463.1石)899.11
21年651
28年1,920
31年3,991
35年4,728 9,848
40年7,714 27,201 1,418,181
45年8,204 37,065 1,361,664
「豊橋市史第三巻」より

三輪村の移入肥料
年次鰮〆粕鰊〆粕干鰯雑魚粕大豆粕
貫  円貫    円貫   円貫   円貫    円
明治31年50 20200   801,500  49550 17.530   12
明治36年2,700 1,000350  10016,100 2,990
「石巻村史」より

 養蚕は確かに農村に現金収入をもたらしたが、同時に現金支出の増加をも招いた。地租改正の金納化による影響とあいまって貨幣経済の農村浸透を加速していったのである。
 しかも、米価も生糸価格も景気によって大きく上下して収入不安定のなか、消費支出のみが定着するという傾向が強まった。対策としては、その他の商品作物の栽培による収入の多角化が必要になるが、園芸・養鶏(ようけい)などの本格的発展は大正期以降のこととなる。
 
岩崎村の小作制度
 小作の契約には、はじめ口約束にとどまるのが普通であったが、県の奨励もあってしだいに証書を用いるものが多くなった。しかし、内容をよく理解せずに判を押すものが多く、大正十年(一九二一)になっても岩崎村は口約束によるものが多かった。その契約内容はまちまちであるが、多くは期間が五年以内で、小作料は依然として田畑ともに米による物納であった。小作料の率は平均して田では地主五〇%、畑では地主三五%程度と、小作料率の全国平均が田=五八%、畑=四五%であったのに比べれば低かったが、暮らしは決して楽ではなかった。
 こうした状況は岩崎村に限らず、豊橋周辺の農村は似たようなもので大差はなかった。

小作証文 松坂家文書