神野新田と牟呂用水

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 神野(じんの)新田は豊橋の穀倉(こくそう)地帯として知られているが、この開拓の歴史は比較的新しい。神野新田の前身は、旧山口藩の毛利祥久(もうりよしひさ)によって明治二十二年(一八八九)に干拓された毛利新田である。この新田は同年九月、潮止めをおこなった直後の津波により、せっかく完成した堤防が原形をとどめぬまでに破壊されたため、再び工事をおこない、翌二十三年五月に完成した。
 しかし、その後、明治二十四年の濃尾(のうび)大地震と翌年秋の大暴風雨により完全に破壊されてしまったため、二十六年、祥久は海西郡(海部(あま)郡)江西村出身の神野金之助(かみのきんのすけ)に売り渡した。新田を四万一〇〇〇円で購入した金之助は、ただちに復興に着手した。起工にあたり、神野金之助の片腕となって工事を担当したのは、碧海(へきかい)郡北新川(碧南市)に生まれた服部長七(ちょうしち)であった。
 現地を視察した神野金之助と服部長七は、計画立案に際して毛利新田より規模縮小も検討したが、結局、元の位置に築堤(ちくてい)することを決定した。その高さを以前より六尺高くして四間とし、服部長七の考案した人造石を使用することにした。まず大堤防の再築工事が開始され、牟呂村と田原町から土砂が運ばれた。近辺から集められた人夫は一日当たり平均五〇〇〇人に達した。激しい西風の中で補強工事をおこなう一方、新田内の地ならし、埋立て、地割(じわ)り、用水工事などがおこなわれたが、これもなかなか難工事であった。
 神野新田の開発にあたり、神野金之助の頭を悩ませたのは、小作農民をいかにして移住させるかであったという。そこで彼は神野新田の宣伝を積極的に試み、有利な条件で移住小作人を募(つの)った。そのかいあって、当初、田原町から六〇戸の移住があり、明治三十五年には二〇〇戸余に達した。彼は入植者の教育に力を入れ、いわゆる「三策(さんさく)」を推進した。これは神社、寺院、小学校の建設を指すもので、明治三十七年には自分の信仰する真宗の寺院として円龍寺(えんりゅうじ)が落成した。この寺は周囲よりやや高台に建立され、住民の避難所としても利用された。
 金之助の努力にもかかわらず、小作人の苦労は大変なものであった。明治二十七年の作付け面積は三百町歩にとどまり、収穫は反あたり二斗七升という低い水準であった。その後、作付面積も増加し塩分も取りのぞかれ、しだいに収穫も増加していったが、厳しい生活に耐えかねて新田を離れる者も多かった。明治三十年代の半ばには反当たり一石の収穫があげられるようになり、大正期に入ってようやく安定した。
 神野新田の堤防の総延長は約一二キロメートル、とくに重要な堤防である三号堤と四号堤には大日如来(だいにちにょらい)を起点として三三体の観音像が百間ごとに安置された。これは仏教を篤(あつ)く信じていた金之助の発案によるもので、そのねらいは住民が毎日巡拝することによって堤防の安全を祈願するとともに、破損を早期に発見することにあり、一石二鳥の効果をあげた。

神野新田の堤防工事

 牟呂用水は、新城市一鍬田(ひとくわだ)で取水してから、豊川左岸の台地の端をうねりながら流れ、やがて豊橋の市街地を二分したのち、神野新田をうるおしている。
 牟呂村に毛利新田を建設する計画が持ちあがったため、賀茂用水の水路を牟呂村まで延長することが決定された。豊川の舟運・筏(いかだ)業者や松原用水の受益者からの反対運動を解決した後、明治二十一年(一八八四)竣工し、牟呂用水と名づけた。しかし、毛利新田と同様、濃尾大地震と暴風雨は、牟呂用水の取水ぜきや堤防に大損害を与え、みじめな結果をもたらした。神野金之助に工事が引き継がれた後、復旧工事はこれまでの被害を見なおし、取水ぜきや堤防、その他の施設の補強や改善を加えておこなわれた。完工は明治三十二年であった。
 長い年月と、多くの費用をかけて完成した牟呂用水は、沿線一万一〇〇〇ヘクタールを越える田畑をかんがいし、現在でも人々に大きな恩恵をもたらしている。
 
人造石を利用した築堤
 神野金之助は、築堤にあたって、自らが九州を訪れたおりに、広島県宇品港で人造石工事を目撃したことを思い出し、それを神野新田にも応用しようと思いついた。その人造石工事の担当者が服部長七であった。人造石とは、花崗(かこう)岩の風化によってできた土に石灰と苦汁(にがり)を混ぜ練り合わせたもので、セメントの発明される以前に、台所・玄関・土間などを仕上げる場合に用いられてきた。金之助は、この人造石の堅い性質にひかれ、石組の間を埋めるためにこれを取り入れた。

豊橋市小学校社会副読本「とよはし4年」より